龍 神 の 詩 −短編集−

本当の名前
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 彼の足元に転がる骸は、見事なまでに急所を一突きされている。

 彼が、やったのだ。


 じわじわと上質な畳の上に赤いしみが広がっていく。

 それがつま先を赤く染める直前に彼は踵(きびす)を返した。

 すでに確保していた経路をたどり、安全な場所まで逃げる。


 彼は暗殺者。

 その存在を誰にも知られてはならない。彼の師と彼を使う華金(かきん)王以外。


 駆けた。

 見つかってはならない。

 一刻も早く逃げなければ。


 人の通らない暗い裏路地を駆け、町をぬけて月明かりの届かない森に入る。

 それでも止まらず、さらに小川を飛び越え、尾根を一つ越え、やっと足をゆるめた。


 そばにあった岩の陰に座りこみ、光のない空を見上げて息を整える。

 虫の声も、獣の遠吠えも聞こえない。ただ、彼の荒い息だけが暗闇に響いた。

 長い髪が汗でほほに張り付く。


 今回の暗殺も成功だ。

 しかし、彼はそれを喜ぶでもなくただぼんやりと宙を見つめている。
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