小料理屋『撫子』
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ごんべえはクラウディオを待つためスタッフルームに待っていたが、
「何だか、落ち着かないわ…」
だが、此処を離れるわけにはいかないし…
その時、
「あ、そうだわ!!」
ごんべえは何かを思いつき、スタッフルームを後にした。
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「ねえ、クラウディオ。あなた何かいい事でもあったのかしら?」
「え?」
いきなり女性客に話しかけられ、クラウディオは思わず固まった。
「どうしてそんなことが…」
クラウディオは慌てた様子で言った。
その様子が面白いのか、女性客は笑った。
「だって、あなたなんだいつもより嬉しそうな顔してるもの」
「嬉しそうな、顔ですか?」
「ええ」
思わず口元に触れた。
嬉しそうな顔など、していたのだろうか…
ただ、あの人を送ってあげるということしか…
「ねえ、教えてくださる?」
女性がクラウディオの手にそっと自分の手を添えた。
その手は手入れが行き届いており、細く長く美しく真紅のマニキュアが塗られていた。
「(ごんべえの手とは違う…)」
爪もそんなに長くないし、
こんなに手入れが行き届いていない。
ごんべえは働き者の手だった。
「いえ、何でもないですよ」
そう言ってクラウディオはまた微笑んで、女性客の手を離し厨房へ向かった。
「すみません、ジエメ様の前菜お願いします」
「おお」
厨房の扉を開けると、テオとヴァンナとマルツィオがいつものように働いていた。
だがその中に見慣れた姿の女性がいた。
「ごんべえっ!?」
「お疲れ様です、クラウディオ」
ごんべえは着物にエプロンを着けてマルツィオと一緒に野菜の皮むきをしていた。
クラウディオは驚きのあまりまたもや固まってしまった。
「何故厨房に…?」
「何もしないで待ってるのがなんだか落ち着かなくて・・・」
「それで厨房の手伝いをさせてくれって来たんだよ」
おかげで助かるよと言ってマルツィオは嬉しそうに笑った。
ごんべえはいつの間にか剥き終ったじゃがいもをカゴに入れた。
「そういえば、先ほどフランチがいたような気がしたのですが…」
「ああ、フランチともお知り合いでしたか。実は今日だけルチアーノが預かることになったんですよ」
「それで」
「ごんべえが来た時、ちょうど外で遊んでいたんですよ」
「そうでしたか」
それでは仕事に戻りますのでと言ってクラウディオは持ち場に戻った。
すると廊下からルチアーノとヴァンナの声が聞こえてきた。
「メシは皆と同じもんでいいのかい?」
「俺のを喰わすから」
そう言ってから二人は持ち場に戻った。
フランチェスコはミニカーを床に走らせながら厨房に入ってきた。
ヴァンナはそのことに気づかず、調理しているテオに近づきスプーンで味見した。
「塩気が強い」
「あんたの好みに合わねえだけだろ」
「どこの大衆食堂で修業したのか知らないけど、一応ここはリストランテなんだからね」
徐々にヒートアップしていくヴァンナとテオのケンカを見てごんべえはハラハラと見ていた。
フランチェスコもキッチンの陰から覗いていた。
「あんたここでイチから修行し直しな」
「ざけんな」
その時、ごんべえはフランチェスコを見つけた。
「フランチ」
「あっ!!女将さんっ!!」
フランチェスコは嬉しそうにごんべえに走って腕に抱きついてきた。
それにマルツィオも気づきフランチェスコに近づいた。
「ここは危ないよ」
「そうですよ。あ、そういえばスタッフルームにまだ和菓子が残ってるので後で食べますか?」
「うん」
「じゃあジェラート食べる?少しだけ」
「うん」
マルツィオはジェラートをよそって、フランチェスコに渡した。
ごんべえにも渡した。
「残りは食事の後でね」
「私もいいんですか?」
「ああ。テオのドルチェはおいしいからね」
「ふふ、ありがとうございます」
ごんべえとフランチェスコと目を合わせて笑った。
「あそこで喧嘩しているおじちゃんが作ったんだよ」
「…」
フランチェスコはしばらくヴァンナとテオを凝視した。
二人もフランチェスコの視線に気づき喧嘩をやめた。
「どっち?」
その一言で場の空気が冷たくなったのをごんべえは確かに感じた。
「まぁ女には見えねえよなあ」
テオの言葉で心なしかヴァンナの視線が冷たくなった。
これにはマルツィオも困ったように笑ってフランチェスコとごんべえの肩に手を置いた。
「あっちで二人で一緒に食べようか。ごんべえ手伝ってくれてありがとう、後は大丈夫だから」
「すみません。じゃあお言葉に甘えましょうか、フランチ」
「うん」
そのまま二人は厨房を後にした。
スタッフルームでジェラートを口にした。
ジェラートは芳醇で濃厚だった。
甘酸っぱい苺の味が口の中に広がり、まろやかだった。
「おいしいですね」
「うんっ!!」
フランチェスコは笑ってジェラートを頬張った。
マルツィオが言うほどの美味しさだ。
ごんべえはその美味さを堪能した。
「ごちそうさまでした」
「でしたっ!!」
「今お水をもらってきますね?」
「うん!!ありがとう、女将さん」
ごんべえはスタッフルームを出て厨房へ向かった。
途中でヴィートとクラウディオがいた。
何か話しているようだ。
「サヴィーナって絶対ルチアーノ目当てで通っていますよね」
「サヴィーナってどなたですか?」
「あ、ごんべえっ!!」
ヴィートは嬉しそうにごんべえに笑った。
クラウディオもごんべえに気づき、あちらの女性ですよと言って手で女性を指した。
きっとあの大胆なドレスに身を包んでいる艶やかな女性のことだろう。
確かにさっきからルチアーノに熱い視線を送り続けている。
「お美しい方ですね」
「金も時間もある未亡人のお遊びという感じ」
「未亡人…ですか…」
ごんべえは少し顔を曇らせたのをクラウディオは見つめた。
ヴィートもそのことに気づき慌てて話を逸らそうとした。
「元ヴァイオリン奏者だそうですよ」
「ヴァイオリンが弾けるなんて素敵ですね」
ごんべえの顔はもうすでに曇っておらず、尊敬の眼差しでサヴィーナを見ていた。
それを見てヴィートとクラウディオは顔を見合わせて、安心したかのように苦笑した。
「詳しいですね」
「この間教えてくれました」
「本当にルチアーノにお慕いしているんですね」
ごんべえはそう言って水をもらいに厨房へと向かった。
2つのグラスに水を入れてスタッフルームへ戻った。
扉を開けるとちょうどフランチェスコがミニカーで遊んでいた。
「すみません。遅くなってしまって」
「ううん。お水ありがとう」
ごんべえがフランチェスコにグラスを渡して扉を閉めようとした。
その時、
「あ、ノンノ」
「本当ですね…あ」
ルチアーノの後を先ほどのサヴィーナが呼び止めた。
「スィニョーレ」
社交的なサヴィーナとは対照的にルチアーノは相変わらず無愛想な顔で振り返った。
「何か?」
感情のこもってない声で答えるルチアーノを見て、ごんべえは思わず扉を閉める手を止めてしまった。
サヴィーナは妖艶な笑みを浮かべながらルチアーノに近づいた。
「お誘いに」
何とも優雅な歩きで一歩ずつルチアーノに寄り添っていく。
「指導しているグループの子たちが出演する演奏会があるの。来週の水曜日ここはおやすみよね?」
2枚のチケットを差し出すサヴィーナを見てルチアーノは特に嫌がる様子も逃げる様子も見せずにその場で立っているだけだった。
「よかったら一緒に」
サヴィーナはとうとうルチアーノの手に自分の手を重ねた。
その手つきがとても色っぽかった。
「今おひとりなんでしょう?別のカメリエーレの方からいろいろ聞いちゃって、私」
「申し訳ないが先約がありますので」
それでもルチアーノは冷たく言った。
まるでサヴィーナがその瞳に映っていないようだ。
その言葉にサヴィーナはそれ以上近寄ることもなく、逆に離れた。
「そう…。羨ましいわね、その方」
サヴィーナは距離を置くとともにチケットをルチアーノの胸に押し当てた。
「よかったらその人と一緒に行ってちょうだい」
そう言ってサヴィーナはその場を去った。
その後姿をルチアーノは見届けた。
「…未亡人のお遊び…か…」
ごんべえは思わずそう呟いてしまった。
そしてフランチェスコを見下ろして微笑み扉を閉めた。
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リストランテの営業も終わり、夕食のまかないも食べ終わり、クラウディオとともに帰り支度をしてした。
お互い帰り支度を済ませ裏口から出ることにした。
「女将さんチャオ」
「チャオ、フランチェスコ」
「それでは、行きましょうか」
「はい、お願いします」
そしてそのままリストランテを出て行った。
あたりはすっかり暗くなっており星が斑に煌いていた。
「キレイですね…空が」
「そうですね…」
「日本とまた違いますね、星の位置が」
「そうなんですか」
そんな感じで他愛もない話をしていた。
何故か二人にはその時間が何処か幸せに感じた。
「それでその時にお客様が」
ごんべえが話しに夢中になっていると、草履が石畳に躓いてしまった。
「きゃっ」
「危ないっ」
すぐにクラウディオが両手で抱き寄せるように支えてくれた。
見た目とは違い意外と胸は逞しく引き締まっていた。
ごんべえは慌ててクラウディオを見上げた。
「すみませんっ!!つい不注意で…」
「いえ、お怪我はありませんか?」
「はい、クラウディオが支えてくれたおかげで」
本当にすみませんとごんべえはまた繰り返そうとしたが、
「しー」
クラウディオはそう言って人差し指をごんべえの唇にちょんと当てた。
ごんべえは思わずその色っぽさに言葉をなくしてしまった。
「私はその言葉よりも他の言葉が聞きたいです」
そう言って優しく微笑むクラウディオは本当に輝いているような気がした。
ごんべえは微笑み返してクラウディオを見つめた。
「ありがとうございます、クラウディオ」
その言葉を聞いてクラウディオは満足気に微笑んで、
「どういたしまして」
そして二人は夜のローマの道を歩いていった。
星と月がその道を照らすかのように輝いていた。
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