long novel
□君を呼ぶ声 第七話
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リザside
◇◇◇◇
ぱしゃん…
肩まで浸かった湯の表面を指で弾いて広がった波紋の中に、今朝のロイさんの様子を思い浮かべて、ため息が零れる。
疲れきった顔で、わたしを抱きしめたロイさんは。
震えていた。
わたしには、その震えを止めてあげる事が出来なかった。
ただ髪を撫でてあげることしか、出来なかった。
なんて無力なんだろう。
もしあの場にいたのがわたしではなく、彼女だったのなら、あの人の震えを止めてあげられたのかな……。
考え続けているとのぼせてしまいそうで。
答の出ない問いをもう一度ついたため息と共に吐き出して、湯舟から出る。
脱衣所で手早く身体を拭いて、ふと大きな鏡が目に入った。
ここに来た初日に割ってしまったその鏡は、いつの間にかロイさんが錬金術で直していたから、もう皹一つない。
湯気で曇ってしまったそれを手で拭うと、映りこむだいぶ見慣れた女の顔。
鏡の中から、鳶色の瞳がわたしを見つめ返してくる。
背中に描かれた複雑な紋様。
そして、その一部を消すように遺る火傷の痕。
それに考えを巡らせる時、決まって頭が割れそうに痛くなる。
これがなんなのか、ロイさんは知っているんだろうけれど。
わたしはまだ聞けずにいた。
この背中の紋様は、ロイさんと”彼女”に深く関係があって、きっとそれを思い出す事は、記憶を取り戻すきっかけになるのだろうとは思うけれど。
あの日、わたしを抱きしめてくれたロイさんの、とても哀しそうな顔が忘れられなかったから。
またあんな顔をさせるのかもしれないと思ったら、尋ねる事が出来なかった。
…………それに。
もし、記憶が戻ったら。
その時、わたしは。
わたしは、どうなるのだろう。
その答を考えたくなくて鏡の中の女から、レベッカに渡された袋に目を移した。
中に入っていたのは、淡いピンクのワンピースのようなパジャマ。
胸元には繊細なレースがあしらわれて、黒いリボンがアクセントになっている。
胸の下に切り返しがあり、左側には浅くスリットが入っていて、スカートの裾にも胸元と同じレースがあしらわれていた。
「……可愛い…」
”彼女”はシンプルな服を好んだらしく、こんな可愛い服は持っていないから、つい嬉しくなる。
これがどうロイさんにベッドで寝てもらうのに役立つのかはわからないけれど、レベッカがやけに自信たっぷりだったのを思い出して、さっそく着てみる事にした。
ツヤツヤとした生地は透ける事はないけれど、あまり厚手とは言えなくて、ちょっとだけ肌寒い。
お布団に入ってしまえばきっとちょうどいいのだろう。
もしかしたら、暑くなりすぎないように、という事なんだろうか?
二人で寝たらお布団の中、暑くなっちゃうもんね。
鏡でおかしなところがないかを念入りに確認して、脱衣所を出る。
明かりを消した廊下は薄暗く、リビングから洩れた明かりが細い光の筋を作っていた。
ロイさんがまだリビングにいてくれた事にホッと息をつく。
また書斎に篭られたらわたしでは中に入る事が出来ないんだもの。
リビングの扉を開けると、ロイさんはソファーに座って、難しい顔をしながら何かの書類−−−たぶん、通り魔事件のものだろう−−−に目を通していた。
手にしたグラスに口をつけて、別の書類を取り上げたロイさんに躊躇いながら声をかける。
「……ロイさん」
「君はもう寝なさい。私はまだ仕事があるから気にしなくていい」
顔を上げていつものようにそう言ったロイさんは、わたしを見ながらまたグラスに口をつけて数秒の間の後。
それを噴き出した。
ゴトッと重い音をさせてロイさんの手からグラスが滑り落ちるけれど、それにも目を向けずにロイさんの黒い瞳はわたしの方を凝視している。
廊下に何かあるのかと振り返ってみても、あるのはリビングの明かりに照らされたぼんやりとした闇だけで、何を見ているのかはわからなかった。
「ロイさん?」
向き直って一歩リビングに足を踏み入れると、ロイさんはどうやったのか不思議な程にこちらを凝視した姿勢のままで飛び上がり。
ソファーの後ろに転がり落ちた。