long novel

□君を呼ぶ声 第一話
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「中尉っ!もう大丈夫だ……もう、大丈夫。中尉…中尉………大丈夫だから」

震える腕がわたしを抱きしめた。
同じだけ震えた声が何度も何度も「大丈夫」だと囁く。
わたしの悲鳴が、小さくなって消えるまで。

そして強く強く抱きしめる腕は、わたしの存在を確かめるみたいに、いつまでも解かれなかった。
そうしていないと、わたしが消えてしまうと思っているかのように。

だからなのだろうか。

気づけばわたしも、その人の背中を抱きしめていた。



広い背中。
夢中で追いかけていた、貴方の背中。
いつだって見つめてきた、貴方の……。
私には、どんなに手を伸ばしても触れる事は叶わない。
だから。
だから、私は………。



「このまま……君が、目を覚まさなかったらと……ずっと、不安だった………怖かった…」

震えた声で囁いて、その人は、わたしから身体を離した。
泣き笑いのような顔で、印象的な黒い瞳にわたしを映す。

「……情けない上司を持って、君も苦労するな」

ずきん、と胸の奥が痛くなる。
この人に見つめられると、泣きたくなる程に胸が締め付けられる。
なのに、どうしてだろう。
もっとその瞳に映りたいと思ってしまうのは。

「中尉…」

慈しむような声がわたしを呼ぶ。
でも…。

「それが…わたしの、名前…?」

黒い瞳が見開かれた。
そこに映る女の顔がはっきりとわかるほどに。
見覚えのない女の顔。

わたしには、わたしの、記憶がなかった。
目の前の、この黒髪の男の人の事も…。
この人に感じる、胸の痛みの意味も、すべて。


わたしは、目覚める前の事を、何一つ憶えていなかった……。










その日から毎日、あの黒髪の男の人−−−ロイ・マスタングさんはわたしのお見舞いに来てくれている。
毎日決まった時間に、綺麗なお花を持って病室に来るロイさんは、わたしにいろいろな話を聞かせてくれた。
ロイさんはこの国の軍人さんで、わたしはそのロイさんの副官だという事。
つまりわたしも軍人だったのだ。

この手で………人を殺めた事が、あるのだろうか…。
滲みだした朱がわたしの手を染めていく錯覚。

背筋から凍ってしまいそうな考えが過ぎって両の手を見つめると、暖かなものがわたしの手を包み込んだ。

朱い幻視を覆い隠すようにわたしの手を包んだロイさんは

「大丈夫だよ。この手は……血で汚れてなどいないから。軍属とは言っても、君は私の秘書のような仕事をしていただけだから」

そう言って、微笑んだ。



なんて。
哀しそうに、笑うのだろう。
ロイさんのわたしを見る瞳は、いつも哀しい色をしている。





わたしには、この人を幸せにしてあげる事は出来ない。
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