long novel

□君を呼ぶ声 プロローグ
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「よかった。戻られているみたいね」

マンションの前に止まった車の窓から見上げた、最上階の彼の部屋には明かりがついている。
電話をかければよかったと道すがら後悔していたから、彼が既に部屋にいてくれて正直、ほっとしていた。

「ここで待ってますよ」

酷くなるばかりの雨足に顔をしかめた少尉がそう言ってくれたが、そこまで甘えるわけにはいかない。

「いいえ、大丈夫よ」

「でも最近、通り魔事件もありますし…」

「ありがとう。でも大丈夫よ。銃はいつも携行しているし、家は近いから」

「そうっスか……。気をつけて下さいね」

「ええ。それじゃお疲れ様。送ってくれてありがとう」

傘を開いて雨の中に出ようとした時「中尉!」と少尉に呼び止められた。
振り返ると、どこか不安そうに青い瞳が私を見つめていた。

「……大佐を置いて、どっか行ったりしないっスよね?」

何故そんな事を聞くのだろう。
少尉は黙ったまま、ただじっと私の返答を待っている。
不安げに瞳を揺らして。


答えなんて決まっている。
私には他の答えなどないのに。
だから、笑ってその青い瞳を見つめ返した。


「私がいなくなったら、誰があの大きな子供の世話を焼くのよ」

「そう…っスよね……そうっスよね!中尉にしか出来ないですよね!」

何度も頷く少尉は、安心したように笑っていた。






ほんの少しの距離ですら濡れてしまった髪をハンカチで拭って、服装を整えると、呼び鈴を鳴らした。
僅かな沈黙の後に扉の奥から聞こえた「はぁい」と言う声に、身体が強張る。
やがて開かれた扉から覗いた顔に、目の前が暗くなったような錯覚。

「どなた?」

小さく首を傾げてそう言ったその人は、とても可愛らしい女性だった。
長いウェーブのかかった栗色の髪が濡れていて。
身体に纏った白いローブのように、白く透き通るような肌が、うっすらと朱く色づいている。

かさかさと荒れてしまっている私の唇とは違う、艶やかな唇がもう一度動いて

「あの…?」

紡がれたその可愛らしい声に、ようやく掠れた声が喉から零れた。

「ぁ……マスタング大佐は……あの…お届けものがあって……」

「ああ、ロイさんの部下さんなのね。ごめんなさい。今ロイさん、シャワー浴びてるの」

その言葉に動揺して、身体が震えた。
それが可笑しかったのか、その女性が、くすくすと笑って私の腕を掴んで引いてくる。

「上がって待っていらして?」

まるで、彼女の部屋みたいに。

どうして……?

少尉は、気乗りのしない相手みたいだったと言っていたのに。
彼女の着ているローブは少しサイズが大きくて。
ここは彼の部屋で。
彼は今シャワーを浴びていて…。

私は。
彼の部下で。

部下でしかなくて。



私は………。



気がつくと、彼女の手を振り払い鞄から取り出した書類を押し付けていた。

「これを…大佐に……」

それだけを言うのが精一杯で。

本当なら、直接渡さなければならないのに。
民間人に、渡すべきものではないのに。


彼の部屋で。
彼女と二人で。
彼が出てくるのを待つ事が怖くて…。
ただ、怖くて。


それだけを言って、彼女に背を向けた。
くすり、と笑う気配。
でも、振り向けなかった。
ただ何かに急かされたように階段を駆け降りる。


雨の中へ、傘もささずに飛び出すと、マンションの前にまだ止まったままの軍用車が目に入った。

「中尉!?」

驚いたような少尉の声が、アスファルトを叩く雨音に混ざって聞こえはしたけれど、立ち止まる事が出来ない。
そのまま車の脇をすり抜けて、走りつづけた。


早く。
早く、この場から離れなければ。
立っている事さえ出来なくなるから。



頬を叩く雨粒が、零れ落ちた涙と交ざりあって、顎を伝っていく。



でも。
ねえ、何故泣くの?
だって私は彼の部下なのに。
部下でしか、ないのに…。


わかっていたじゃない。
こんなこと。
彼には何人も恋人がいて。
私はその中には入れない。


彼は。
私を見てはくれない。






そんなこと。


わかっていたでしょう?


水を吸ったスカートに足が縺れて派手に転ぶ事で、私の足はようやく止まってくれた。

「……ぅっ…く…」

唇を噛んで、漏れかけた嗚咽を飲み込んだ時、すぐ側で悲鳴が響き渡った。
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