long novel
□君を呼ぶ声 プロローグ
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ことり、と目の前にマグカップが置かれて、顔を上げるとリザが立っていた。
「それでは行ってまいります」
「ああ、もうそんな時間か。しっかり扱いてやってくれ」
「はい。……私が居なくても、サボらないで下さいね」
「わかってるよ。お茶、ありがとう」
「いえ」と短く答えた彼女は、そのまま背を向けると部屋を出て行った。
扉が閉まるまでその背中を見送って、再び書類に目を戻すとハボックが声をかけてきた。
「大佐ぁ、中尉はどこ行ったんスか?ここんとこよくどっか行ってますよね」
「言ってなかったか。中尉は新兵の射撃の講師を頼まれたんだよ」
「マジっスか!?」
驚くハボックに「臨時講師だがな」と付け加えて頷く。
本来の講師が事故でやむなく休暇を取る事になり、その後釜として、あの内乱で士官候補生ながら前線で活躍し”鷹の目”と呼ばれた彼女に”臨時講師”の打診がきたのは、つい先週の事だ。
すでに三回、彼女は講義を行っている。
「彼女の授業は評判がいいみたいだぞ。正式に講師にならないか薦めてくれと言われたよ」
「まさか、薦めたりしないですよね!?」
「当たり前だ。中尉は私にもなくてはならない副官だぞ」
「はぁ〜。よかった」
「なんだ?…お前まさか、中尉に気があるんじゃ!?」
素早く手袋を装着して睨むと、ハボックが慌てて頭と手を振った。
「違いますよ!中尉がいなくなったら、誰が大佐の仕事の管理するんすか!他のヤツには無理っスよ!」
なんだそんな事か、とため息をついて、はめたばかりの手袋を引き出しにしまった。
………。
よくよく考えてみるとひどく失礼な事を言われた気がしたが、あえて気づかない振りをする。
実際、彼女がいなければギリギリまで書類を溜め込んで部下に泣かれていたりするのだから。
「それにしてもいいんスか、あんな事言っちゃって」
「なにがだ」
問うと、ハボックがニヤリと笑った。
「他の女の子とデートなんて、中尉に嫌われますよ」
「………」
「二兎を追うもの一兎も得ずって言うじゃないっスか」
忘れていた。
どうやらハボックは、先日私の気持ちに気づいたらしいのだ。
部屋には私たち二人しかいない為、ここぞとばかりにからかって、タバコを揺らしながら笑う部下を睨みつけるが、あまり効果はない。
「彼女が……私に振り向く事などない」
ため息混じりに呟くと、私の疲れきった表情に気づいたハボックが、口許に浮かべていた笑みを引っ込めた。
「らしくないっスよ。何かあったんスか?」
「……何も」
過去の過ち以外は何もないさ。
私と彼女の関係は、上司と部下としてのそれから、変わる事はない。
彼女がそれを望んでいるのだから…。
「それに今日はデートじゃないぞ」
「そうなんスか?」
「逆だ。もうデートには誘わないでくれと断りに行く」
「………それ、厭味っスか」
「なんだお前、この間の彼女にもうフラれたのか?」
「ほっといて下さいよ!」
おいおいと泣き出したハボックに苦笑をもらす。
私の心配などしている場合ではないだろうに。
「今度飲みに連れていってやるから泣くな」
「おごりっスか!?」
顔を上げた現金な部下に頷いて、他の奴らも−−彼女も誘って久しぶりに飲みに行こうかと、そんな考えが頭を過ぎった。
「でもそれならそうと中尉に言えばいいじゃないっスか。そしたらきっとあんなに怒らないと思いますよ」
「私がデートかどうかなんて、彼女が気にするわけがないだろう」
まだ何かを言おうとしたがそれを制するように書類に目を落とすと、ハボックは開きかけた口を閉じた。
小さなため息をついて同じように仕事に戻っていく。
お前は知らないんだ。
私が彼女にどれだけ酷い事をしたのかを。
私は彼女をただ蹂躙しただけ。
何も知らない無垢な彼女をこの手で汚し、裏切った。
その背中に口づけと、醜い跡を遺して。
だから、ほんの少しだけ願ってしまった。
もしあの頃をやり直せたならと。
私が取り返しのつかない過ちを犯す前の彼女に逢えたらと。
それさえも罪なのだとしらずに。
願ってしまった。
だからこれは罰なのだ。
犯した罪から目を背けようとした、その罰なのだろう。