小説3

□ときめくラピュ 全4話
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今夜のマスターはいつにも増して忙しい。せわしげに動いてカウンターの客を落ち着かない気分にさせたりは決してしないが、いっときも動きが止まることはない。テーブル席から入ったオーダーの酒を用意し、カウンター席の空になったグラスを下げ、話しかけられればどんなに忙しくても笑顔で会話を交わし、その間も手が休まることはない。
こんなとき、俺は黙ってゆっくりと酒を飲み、マスターの仕事の邪魔をしないよう気を付ける。迷惑になるから話しかけたりなんかしない。でも気づかれないよう注意を払いつつ、目線は常にマスターの動きを追っている。
いつもそうしているうちに気がついたことがある。このカウンターにひとりで座る客の中には、明らかにマスターとの会話目当てで来ていると思われるのがいる。決まった曜日の決まった時間にしか来ない俺が何人か確認したんだから、実際はもっとたくさんいるんだろう。ホテルのバーっていう場所もあって大抵マスターよりも年上のおっさんだけど、ときにベンチャーで一財産築いたみたいな若いのが楽しげに話しかけてたりする。
マスターは人を惹きつける。俺のように惚れた云々じゃなくても、マスターと話すことで気持ちが高揚したり、あるいは落ち着いたり、癒されたりするんだろう。マスターにはそういう度量の大きさというか懐の深さというか、なんというか対峙する相手をリラックスさせる不思議な力がある。こういうのって努力で身に付くものとは思えないから、マスターが持って生まれた資質なのかもしれない。そしてその資質を伸ばしうる環境で成長したんじゃないかと思う。ホテルという閉塞的な場所のさらにバーのカウンターという限られた空間にいながら、マスターからはいつも伸び伸びとした開放感しか感じない。
「あ、ありがとう」
酒がなくなり溶け始めた俺のグラスを、マスターが手早く下げる。なにも言わずに目だけで「お代わりを?」と尋ねてくるので小さく頷く。
こういう忙しい夜、マスターはほかの客に対してより、俺に気を遣わない、気がする。「お代わりをお作りしましょうか」と尋ねながらグラスを下げるという一般的なサービスを、俺にはしないことがある、今みたいに。それがひどくうれしい。俺は特別。俺はほかの客とは違う。そんな優越感を抱かずにはいられない。
「常連さんなんですね」
声をかけられ、隣の席を初めてまともに見る。俺と同年代の女が微笑んでいた。それまでまったく視界に入っていなかったので気がつかなかったが、どえらい美人だった。
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