小説3

□春彼岸 全2話
2ページ/2ページ

近藤と土方は、店の主人が出してくれた蛤の酒蒸しを食べ、噛んだ途端に口の中いっぱいに広がった潮の香りに思わず目を閉じた。
「うまい」
土方がぼそりと言う。最高の賛辞だった。
近藤はたらの芽の天ぷらがあることを確認して注文した後は、「旬のもので適当に頼む」とだけ言い、あとは主人任せにした。ふたりが心身ともにリラックスできる貴重な店は、今夜も居心地がよかった。
「なあ近藤さん」
杯を傾けながら土方が言う。
「誕生日と命日と、人間にとってどっちが大事だと思う」
それは土方が以前から漠然と抱えていた疑問だった。自分で納得できる答えが探せないまま、ついぽろりと口にした。
ところが近藤の返事は土方があっけにとられるほど早く、迷いがなかった。
「生きてる人間には誕生日、死んだ人間には命日。生きてる人間に命日ねえもん。俺たち見てみろ、いま生きてんだからまだ命日決まってねえじゃん、なのに知らない命日のほうが大事なんておかしいだろ」
死んだ人間には誕生日と命日があっても、今を生きる人間には誕生日しかない。近藤の回答はどこまでもいさぎよく、力強かった。土方はほとんど圧倒された。
「…そりゃそうだ」
答えが出ずにずっと心の隅でぼんやり迷っていた疑問に、いともあっさり近藤が答えを教えてくれた。しかしまだ腑に落ちない点も残っている。
「でも近藤さん。死んだ人間だとどうして命日のほうが大事だと思う」
「そもそもどっちが大事って比較するもんじゃねえと思うけど、トシが聞くことだからな。法事もそうだけどさ、お彼岸とかお盆とか、そういうのってこの世にいない人に改めて思いを寄せる日でもあるだろ。人が死にたくねえって思うのは、自分の存在がこの世から忘れられちまう恐怖ってのも大きいと俺は思うわけ」
近藤は酒を一口飲んでから続けた。
「死んだ人間はそれ以上年を取らねえから誕生日を祝ってやることはできねえが、命日には法事があったり墓参り行ったり、いろいろ行事あるだろ。忘れられてねえってあの世の相手を安心させてやれる日だ」
「…そんな、死んだ奴をいちいち覚えてらんねえよ」
「お前さ、そういうこと言うなよ。思ってもねえこと」
土方の強がりなど近藤には通用しない。やさしい笑みを浮かべて言われ、土方は喉の奥がつんと痛くなった。
近藤と土方は、これまでの人生ですでにたくさんの人を失ってきた。病に倒れた者、自ら命を絶った者、殉職した者、近藤と土方の刃にかかって死んだ者。忘れないことが生きている人間の務めであり、死者に対する供養であることを、近藤は知っている。
「ふきのとうのみぞれ餡かけです」
店主がふたりの間に新たな一品を置いた。近藤が破顔する。
「これも武州でさんざん食べたな、なつかしい。総悟は苦いっつって嫌がってたけど」
「ガキにゃこのうまさがわかんねえんだ」
「今はばくばく食ってるぞ」
再び雑談を交わしながら箸を進める。その様子を、雲の上から目を細めてのぞきこんでいるいくつもの目があることを、ふたりは知らない。


前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ