小説3

□蜻蛉 全13話
1ページ/13ページ

鉛のように体が重かった。
人目に触れないよう、路地から路地へ、薄暗い夜道を歩く。顔を隠すために頭からかぶっていた頭巾は血に染まり過ぎて使い物にならず、途中で捨てた。
(とにかく、目的は達成できた。それに近藤さんが出張から戻って来る前に片を付けられた。予定通りだ)
土方は先ほどから何度も自分に言い聞かせている言葉を、もう一度繰り返す。
久しぶりの汚れ仕事だった。
近藤は知らなくていい、知る必要のない、いま土方が歩いている路地のように腐敗臭の漂う暗い仕事。捕縛ではなく斬り捨てるだけの仕事。顔も名も明かさぬまま、たとえ相手が丸腰だろうと泣いて命乞いしようと一切の容赦はしない。真選組のために、近藤のために、土方は今までもこの役目を自ら進んで引き受けてきた。そのことに悔いはない。これからも。
だが今夜はいつにも増して後味が悪く、土方はやりきれない不快感を消化できずにいた。タクシーも駕籠も拾わず黙々と歩いているのも、屯所への道中でなんとか気持ちを落ちつけたかったためだが、今のところうまくいっているとは言えなかった。
男をひとり消すだけの仕事だった。いくつかの事情と不運が重なり、生きていては困る存在になった男だ。
予想外だったのは、女がいたことだ。その女の存在は山崎から聞いていたが、何か月も前に縁が切れたという話だった。ところが運悪く、よりによって今夜、女がよりを戻そうと男のもとを訪れていた。
それでも多少の想定外な出来事で土方のすべきことが変わるわけではない。関係ない女を巻き添えにするつもりもなかった。
男を斬るべく鯉口を切ったとき、性根の腐った男は女を盾にして土方の刃を防ごうとした。女の絶叫のような悲鳴など無視して、女の背中ごしに切れ味の悪そうな果物ナイフを土方へ向けている。土方はまったく動じることなく、女を傷つけないよう、背後に隠れている男の脇腹を狙おうとした。
女が暴れたのと、男が土方へ刃物を振り上げたのは悲しいほど同じタイミングだった。錆びついたナイフでも頸動脈を傷つけることはできる。女は首からシャワーのように血を吹き出し、大きく口を開け、少し不思議そうな顔をして倒れた。土方は内心舌打ちをしつつ、パニックになっている男を一刀のもと斬り捨てた。
男が女をうっかり殺めてしまったのには自分にも責任がある。女を盾にする暇を与えず斬るべきだった。
そう冷静に振り返りながら女を見たとき、愕然とした。だらりと着物を羽織っていたので今までわからなかったが、女の腹は大きかった。
(まじかよ)
ひとりの男を消すために、女とその腹の子の命まで奪ってしまった。土方が殺したわけではないが、自分の行動が原因であることは確かだ。
(最悪だ)
歩きながら気持ちの整理がつくどころか、ますます深みにはまっていく。女の大きな腹が脳裏に焼き付いていた。
(あれ)
見慣れない店があった。最近できたのか、酒を扱うことを示す小さな表札だけが出ている。なんとも商売っ気のなさそうな店だ。
一杯引っかけて帰ろう。知らない店だからこそ、土方はそう思ったのかもしれない。
重い木の扉を開けると案の定、カウンターだけの小さな店だった。今の土方に負けず劣らず陰気な空気の男が、ちらりと土方を見て「いらっしゃい」と腹話術のように言う。
「強いのくれ」
武骨な椅子に座るなり、そう言って煙草に火を付ける。煙がやけにねっとり喉に絡む感じがして不味い。土方は目を閉じ、改めて自分に言い聞かせた。
(明日は朝からいつも通りの仕事が待ってる。夕刻には近藤さんも戻ってくる。嫌な気持ち引きずるのはここまでにしねえと。近藤さんは変なとこで勘がいいから)
土方の前に酒が無言で差し出された。一口飲み、その強さに思わず顔をしかめる。
(なんだよこれ、ほんとにとんでもなく強えな)
これなんの酒だ。そう男に尋ねようとしたとき、土方の意識は一気に落ちた。
そのままカウンターに突っ伏す。
指先には煙草が挟まったままだった。
次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ