ヘルシング
□手を択って朝に眠れ
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マスターの寝顔を見るのは、これが初めてではない。
インテグラ様の命で、何度かマスターの部屋を訪れ起こしに行ったことがある。
しかし大抵の場合、ウォルターさんに付き添ってもらい、起こす行為もウォルターさん任せにしていた。
だが今回は状況が少し違っていた。
明け方、なかなか寝付けなくてセラスは部屋を出た。
長い廊下の先を見ると、アーカードの部屋の扉が少し開いていることに気付く。
不審に思ったセラスは、中の様子が気になり、恐る恐る歩を進める。
するとそこには、大きな椅子に凭れかかり眠る主人の姿があった。
その寝息から、眠りの深いことが、よく分かった。
「いいなぁ、マスターは恐れるものがなくて…」
セラスは思わず溜め息を漏らした。
自室の扉に鍵もかけず、ましてや棺にも入らず、おおっぴらに椅子に凭れて寝る主人の神経など、セラスにはとうてい理解し難いことだった。
セラスにとって、ヘルシングに仕えてからは恐怖心との闘いであった。
いや、アーカードに仕えてから、といったほうが正しい。
私は死んでしまった。
それは自分だけが世界のあらゆるものから切り離されて、過去に置き去りにされたみたいだった。
すべては死を踏破した代償なのだ。
セラスはアーカードの寝顔を見ながら、主人の孤独について想像してみた。
500年以上も歩き続ける、主人を想った。
それは絶望に近いのだろう。
するとなんだか目の前にいる人の形をした化け物である主人が、とてつもなく愛おしい存在のように思えてならなかった。
こんな感情を抱いたことが未だかつてなかったセラスにとって、
それは情愛なのか親愛なのかは判断が出来なかった。
いずれにせよ、セラスはアーカードに心を奪われていた。
「マスターの寝顔、綺麗だなぁ」
セラスは食い入るように見詰めた。
アーカードの寝顔から目が離せない。
初めて、美しい、と思った。
この美しい男が、眼を開ければ忽ち殺戮と血を求める鬼と化してしまう。
今は想像もできない。
見詰めていると、セラスは次第に心がざわめきだしていることに気が付いた。
―触れてみたい。
抑えきれない欲望が湧き上がる。
普段ならば考えもしないことだが、アーカードの穏やかな表情が、セラスにそう思わせた。
いつもはおっかなびっくりである彼女だが、
今は嘘のように恐怖心が無い。
そっと、主人に近づく。
静かに、膝掛けに置かれる主人の手に、自らの手を伸ばす。
指先に触れた主人の手の甲の冷たさに
セラスはとてつもなく哀しい気分になった。
触れてしまうと、それだけでは満足できずに主人の長く美しい黒髪に触れてみたいと思った。
アーカードの長く垂れた頬に掛かる髪に、そっと触れる。
その感触は想像していたものよりも遥かに冷たく、乾いていた。
セラスは瞳を閉じた。
その刹那、セラスは手首を捉えられ、忽ち全身を恐怖が包む。
身動きが取れない。
恐る恐る目を開けると、
自分の手が主人の頬に添えられたまま、赤い双眼が此方を向いていた。
無表情である。
「す、すみません、マスター、つい、出来心で…」
言い訳を口にすると掴まれた手を強く引かれ、セラスは均衡を崩した。
アーカードはセラスを抱えるように膝に乗せると耳元で低く囁いた。
「触れたかったら好きにするがいい。但しもう少し大胆なほうが良いだろう。
お前は臆病過ぎて、非常に歯痒い」
セラスは硬直し、顔を耳の端まで真っ赤に染めた。
どうしていつも、全てが見透かされてしまうのか。
セラスは小さく、すみません、と呟いた。
すぐさま離れようと立ち上がったが、掴まれた手をなかなか主人が解放してくれない。
暫くしてアーカードは、ゆっくりと掴んだ手を握り締め、セラスの手を引っ張るようにして椅子から身を起こし立ち上がった。
「何も考えるな。お前も、私も、同じなのだ」
そう言ってアーカードは手を離した。
アーカードは多くは語らなかったが、セラスにはその言葉が十分理解できたし、それだけで救われた。
「もうすぐ夜が明ける。もう寝ろ、婦警」
いつもの調子でそう言い放つと、アーカードは自分の棺に向かう。
はい、と短く返事をして、セラスもまた、
自らの棺へと向かった。
終
(2009/1/9)