黒バス
□掻き消えぬエトワス
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※ヤンデレ、不道徳
のたうち回るように無様に、滑稽に、それでも必死で逃げたかった。
重すぎたのは憎しみか、憤怒か、それとも全く別物の情動だったのか。
定かではない。絶望感を知った今、とうに忘れてしまった。
何かを考えて何かから全力で逃げて、故意に意識を閉ざしているというのに、現実はいつだって雁字搦めに自分を縛って蝕み続けている。今この瞬間でさえ、縛りは緩和される事無く。
今が何時なのかさえ知り得ない無の空間で、只々意識を殺すだけだ。
それが黒子テツヤの日常と化している。
静寂に包まれる殺風景で真っ白な部屋は、昼間だと言うのに夕方のように薄暗い。
遮光カーテンで陽光を遮られている部屋よりも陰鬱とした、そんな薄暗さだった。……もっとも、この殺風景な部屋には窓というものがそもそも取り付けられていないのだから、光が射す筈も無いのだが。
精々十畳程度のその部屋の隅には同じく真っ白なベッドと簡素なサイドテーブルがあるだけだ。
シーツも枕も、上質な毛布さえも白く、そこに横たわるだけで病人になった錯覚を抱くようで、今こうして横たわる自分の病気は、何だったかと考えてしまいそうになる程だった。そんな思考を遮るようにして室内に響くのは二回続けられたノック音。
ドアを叩いてその二秒後、ドアノブは静かに回され、黒子にとっては開かずの扉が今、開かれた。
「――ちゃんと待っていたんだね」
抑揚の無い声だった。
黒子が唯一口を利ける人物であり、言葉を交わす必要性のある命綱でもある。しかし、タイミングが悪かった。今は会話をする気にもなれないのだ。
かけられた言葉に何を返すでもなく、黒子は虚空を見つめ続けた。
「……何も無い壁を見つめて、何を考えているんだい?」
「……」
「僕には言えない事か?」
「――別に」
「別に、何?」
抑揚はやはり無いものの、僅かに気に食わないと言わんばかりに、口調は責めるような強さを含んだ。
(ああ、まただ)
考える程のものを考えていたのではない。持て余す暇を潰す為だったとも言えるし、この陰鬱とした現状からの逃避とも言える。
要は、口に出す程の大それたものではないと黒子は言いたかった。
口を開くのも億劫だったのだと弁解したところで、意味を成さない。だから黒子は、口を噤んだ。それが現状における、唯一の抵抗手段なのだ。
その態度が、相手にとって一番気に食わないものだと知っている。
この程度は赦されるだろう。そうでなくては、あまりにおかしい。理不尽で不公平だ。
彼が――赤司征十郎が黒子テツヤから奪ったものはあまりに多すぎた。
赤司は淡泊だ。何事にも然程の興味を抱かない。それは無機物にも人間にも同じだった。だからこそ一度芽生えた興味が、度を越した固執に進化する事も容易だったと言える。
彼は心の底から欲した。
抑制心を壊してまで、道徳をかなぐり捨ててまで、良心を踏みにじってまで、黒子を手に入れる事を選んだ。
「まさか、まだ外に未練でもあると言うのかい? 逃げても無駄だよ」
「どうやって逃げろっていうんです?」
自由に逃げられる筈だった足を、役に立たない重荷にしたのは他でも無い赤司なのだ。
逃げられないと分かっていて尚、厭味でもなく口にする彼を、歪だと、再度思った。
大切な腱を失った。とても呆気無く、たった一日で、黒子は逃げる自由を失った。
立ち上がる為に必要だったものを奪われてしまった。
どこにも行かせない為には必要だったのだと、奪った張本人はそう言った。自分勝手な鬼畜さを、さも正論とばかりに。
「アキレス腱返して下さい、なんて言ったって、君は嗤うだけでしょう」
絶望を知る目で微動だにしない足首を見やる黒子の横顔を、赤司は愛でるように見つめる。
その口元には、黒子の言う通り、どこまでも陰鬱で嘲笑うかのような歪な微笑が貼り付けられていた。
「どこにも行かせない為には、そんなもの潰しておかないといけないだろう?」
「―――あくしゅみです」
満足げに洩らした言葉に小さく悪態をつくと、黒子は使い物にならなくなった両足を擦った。
なまじ足が残っているだけに、残る絶望も大きかった。痛みはもはや曖昧な記憶の中で燻っていた。
抉るように潰されたあの瞬間、聞くに堪えない断末魔と共に意識までもが切れた。覚えているのは、歩けないと知った時の言いようの無い絶望感だけ。
全身が鉛にでもなった気分だった。
(――もう、逃げられない)
悟ったのもその時だ。
それでも。
のたうち回るように無様に、滑稽に、それでも必死で逃げたかったのだ。
重い足を引きずるように、赤司の歪んだ想いからも一緒に。
「すきだよ、テツヤ」
自分を呼ぶ、抑揚の無い声に縛られながら、今も尚。
掻き消えぬエトワス