黒バス

□コイブミ。
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 和やかな陽射しが窓ガラスから射し込み、図書館内に立ち並んだ本棚を照らす。微かに温もりを持った木製の棚から、赤い背表紙の書籍をひとつ抜き出して開いてみると、紙とインクの匂いが鼻孔を擽った。


 普段から利用者の少ない図書館は、今のところボクの姿しかない。
 だからといって勉強をしに来たボクのペンを動かす進度が早まるわけでもなかった。シャーペンを走らせる音ではなく、人気の無さで自重を忘れた唸り声が机上へ転げ落ちるばかりだ。


(ああ、だめだ。全然捗らない)


 うなだれている間にも、時間は刻々と過ぎて行く。苦々しい気持ちで視線を巡らせた。その先には愛用のシャーペンが転がっており、それを何の気無しに眺めているうち、ボクの中で小さな悪戯心が芽生えたのだった。

 シャーペンの頭を数度ノックして、机に文字を書き込む。硬い音を立ててペンが走り、五文字の言葉を残していった。


『初めまして』


 実にシンプルなその挨拶に、何も本気で返答があるとは思っていなかった。きっとすぐに消されてしまうだろうし、消されずとも言葉を返す者などいないだろう、そう考えていた。
 ボクにとっては、現実逃避代わりの戯れだったのだ。




『落書きをしてはいけないよ』


 だからこそ、その一文を目にした時は酷く驚いた。ボクが『初めまして』の五文字を残して図書館を後にしてから、二日が過ぎた日の事だ。

 ボクの挨拶は跡形も無く消されて、そこへ成り代わるかのように流麗な文字が記されている。落書きをたしなめる文面を何度も読み返しながら、しかしボクの心は高揚していた。
 幼い頃読んだ物語に、手紙を結びつけた風船を飛ばす少年がいたが、きっと彼もこんな気持ちだったのだろう。


『君も人の事言えないじゃないですか。落書き仲間ですね』

 一目見るだけで憎たらしいしたり顔が浮かびそうな文章を残し、ボクは図書館を後にした。勉強はこれっぽっちも進んでいなかったものの、ボクの足取りは軽かった。

 そしてまた二日後、ボクは図書館へ訪れた。定位置に腰掛けて真っ先に確認するのは、言うまでもなく例の落書きだ。
 期待に膨らむ胸を静めながら見下ろした先には、予想通り流れるような文字列が並んでいた。


『減らず口を叩く奴だな』

 面識も無い人間に投げかけるには些か無礼な返答ではあったが、ボクにはその反応が酷くかわいらしく思えた。
 気に障ったのなら無視してしまえばいいのに、融通の利かない性格なのか、律儀に返事をする相手に親しみを覚えたのだ。
 ペンを手に取り机上へ走らせる。

『そんな事言わずに、これも何かの縁です。仲良くしましょう』



 かくして、ボクと名も知らぬ相手との、風変わりな文通が始まったのである。






『ボク、甘いものがすきなんです』

『奇遇だね、オレもだよ』

『君も? 落書き仲間の上に甘いものも被っちゃうんですか』

『勝手に変な仲間にするな。結構無遠慮だな、お前は』

『それはお互い様です。今日は夕焼けが綺麗ですよ。明日は晴れでしょうか』

『残念、今日は雨だよ』

『雨の日もすきだからいいですよ』



 交流は続いた。他人の目に触れる可能性もあるため、お互いの事は詮索しないという暗黙の了解があったものの、それでも交わされる文が途切れる事は無かった。

 そんな日々が二ヶ月、三ヶ月と続き、全く素性の知れなかった文通相手の輪郭は徐々に色濃くなっていった。例えば、ボクと同様に甘いものがすきな事、小説をよく読む事、ボクの投げ掛ける言葉に見せる反応が素っ気なくも暖かい事と、あげていけばきりがない。新しい発見がある度にボクの胸は躍り、和やかな気持ちで目を細めた。

 そうして幾度も言葉を交わし、季節が移り変わる頃には、文通はボクの生活にすっかり組み込まれていた。

 用事で図書館へ赴く事が出来ないとついそわそわしてしまい、返事を待っていてくれるだろうかという不安と、待っていてくれる筈という希望の間を往復した。また逆も然りで、数日返事が無いと何かあったのか、マズい事を書いてしまったかと冷や汗をかき、後日、忙しかったとの言葉に胸を撫で下ろした。
 どうしてこんなに顔も知らない彼のことが気になるのか、分からない。だからこそ、この日のボクは己の書いた文章に酷く狼狽えていた。



『君に会いたい』



 極めて簡素なそれを書き綴ったのは殆ど無意識だった。それまでは他愛もない話をしていた筈なのにどうして、そもそもこれでは恋人に送る手紙のようだ。そう思って消しゴムを手に取ったが、脳裏を掠めた“恋人”の文字に動きを止めた。

 自分達は、顔を合わせた事も無ければ互いの名前も知らない他人同士だ。その気になれば容易に断ち切る事が出来る、細い細い糸で繋がった関係だ。

 でも、ボクはいつの間にか、その糸が切れぬよう、必死に言葉を紡いでいた。
 短い文章に心を込め、向こうからの返事に一喜一憂した。相手の事をひとつ知る度に胸が躍り、自分の事をひとつ知ってもらう度に喜びが込み上げた。
 その声を聞いてみたいと、心の底ではずっと思っていた。
 ――この感情に“恋”以外の名前を見つける事は出来なかった。




(……どうしよう)

 自身の気持ちに気付いてしまったボクは、消しゴムを持つ右手に力を込めた。眉根を寄せ、弱々しく息を吐き出す。乾いた呼気が机上に記された文字を撫でていった。

 己の恋を自覚した今、この文章は下心の塊になってしまった。向こうは顔の見えない人間が相手だからこそ、こんな茶番に付き合ってくれたんだろう。自分の一方的な恋情で、その優しさを裏切るような真似をしていい筈がない。

 机上の六文字に消しゴムをあてがう。この文章と共に自分の恋心も無かった事にしてしまおうと、何の自覚も無かった頃へ時間を巻き戻してしまおうと、そう決めた。
 しかし震える指先は動く気配を見せない。唇を噛みしめて俯く。泣き出してしまいそうな気持ちに、きつく目を閉じた。
荷物を引っ掴んで、何かを振り切るようにして立ち去る。
『君に会いたい』の文字を、残したまま。







 それから一週間、ボクは図書館へ向かう事はしなかった。
 忙しいのか、予定があるのかと問われれば、首を横に振るしかない。ため息ばかりの日々だ。
 その原因は勿論、自分はどうすべきかも分かっていたものの、ボクはどうしても踏み切れなかった。意識下で知らず知らず育っていた恋心はボクの思うよりも遥かに大きく、簡単に捨てる事など出来なかったのだ。



 しかし、一週間考えに考え、ボクは答えを出した。返事が無ければ、あったとしても相手が困惑しているようなら、この気持ちはすっぱり忘れてしまおう。きっと、それが一番良い。そう心に決め、図書館へ足を運んだ。
 館内はきょうも閑散としており、晴れた空から降り注ぐ太陽光が室内を明るく照らしている。
 暖められた空気は紙とインクの甘いような、どこか埃っぽさを交えたような匂いに染まり、ゆっくりといつもの席に歩を進める頬を掠めていった。
 見慣れた机を何となく感慨深く撫でて、腰を下ろす。そして、ボクは一度大きく深呼吸をしてから机上に目を落とした。もしかしたら、万が一の事が。
 そんなささやかな期待を乗せた瞳に映ったのは、




『君に会いたい』

 一週間前に記したものと、何ら変わらぬ六文字であった。
 返事は、どこにも見当たらなかった。

(そりゃそうか……)

 酷く滑稽で情けない気分になり、思わず苦笑を漏らした。自分は何を期待していたのだろう。恋だの何だのと浮かれて、向こうを困らせて、何とはた迷惑な事か。冷めた思考とは裏腹に目頭は熱を持つけれど、ボクはそれに気付かない振りをして消しゴムを取り出した。
 一週間前には消せなかったこの文章を、きょうは消さなくてはならない。消せるようでなければいけない。痛む胸に蓋をして、消しゴムを机に擦り付ける。机上に記された恋文は姿を変え、黒い残滓が寂しげに影を落とすだけだった。

 そして小さく息を吐いて、今度はペンを走らせる。突然おかしな事を書いてしまった謝罪と、どうか気にしないで欲しいという願いだけは、どうしても伝えたかったのだ。この文章で全てを終わりにしようと、そう考えた。
 でも、ボクが謝罪の言葉を書き込んでいる、まさにその時。




「落書きをしてはいけないよ」

 静かな声が背中に触れ、弾かれたように顔を上げた。呼吸も忘れて振り返った先でボクを見下ろすのは、見覚えのない少年だ。端正な顔も、涼やかな声も、ボクの記憶には無いものだった。

 だけど、見上げた先で腕を組んでいる彼の素性を、問う事は無い。

 ゆっくりと涙混じりに笑みを浮かべ、目元を濡らす雫を拭った。



「初めまして。……ずっと、君に会いたかったんです」



 和やかな陽射しが窓ガラスから射し込み、薄く染められたボク達の頬を照らす。

 微かな温もりを持った机の上では、もう文が交わされる事も無いだろう。

 そんな事をしなくても、その声で、素直な想いを伝えられるのだから。



 宛先を見失ったかと思われた恋文は、確かに届いていたのだから。






コイブミ。













end

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