黒バス
□虹色の約束
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薄い膜の上に沿って、色を変える虹色が流れていく。赤、青、緑。
指で輪を作り、そこに息を吹きかければ次々に生まれていく球体。
風に漂うそれらを目で追いながら、黒子は頬を緩ませた。
もう一度、もう一度とそれを繰り返すうちに、黒子は本来の目的をすっかり忘れきっている。水槽の中では、放置されてしまった食器達がその存在を思い出してもらえるのをじっと待っている。しかし今の黒子はシャボン玉に夢中で、その時は訪れそうもない。
再び水槽の石鹸水に手を浸し、輪を作る。その手を顔の高さまで掲げて息を吸い込んだところを見計らって、赤司が声をかけた。
「何してるんだ?」
「わっ!」
声と同時に飲み終えたグラスを首筋に当て、黒子は声をあげて赤司に振り返った。無防備な首筋に訪れた突然の冷覚に、驚かせないで下さい、と膨れる黒子。それに対し赤司は、「お前が言うな」と呟いた。
「……シャボン玉だね」
す、と視界の端に影が落ちた。視線を水槽から移せば、先程まで背後にいた赤司が黒子の隣に立っていた。少し俯いているのと、影を落とす前髪でその表情は窺えないが、声には仄暗い響きが混じっている。
「そうですよ。綺麗ですよね」
そんな赤司の様子を知ってか知らずか、黒子はまた輪を作る。少し強めに、しかし膜を破らぬように息を吹き込めば、そこから小さな球体が群れを成して飛び出していった。そのどれもが電灯を虹色に反射して、風に乗り二人の周りを漂う。
「ボク、シャボン玉ってすきですよ。丸くて、綺麗で。ふわふわ飛んでるのを見てると、なんだかボクまで飛んで行ってしまいそうです」
黒子の台詞に赤司の目が微かに――本人でさえも気付かない程微かに見開かれた。一瞬呼吸を止めた赤司は何事かを呟いたが、舌の上だけで紡がれたそれが明確な言葉として唇から漏れる事は無かった。
もちろん黒子には届いていないその言葉の代わりに、赤司は告げた。
「――オレは、きらいだ」
はっきりとした拒絶。黒子は「どうしてですか?」と首を傾げ、それから「こんなに綺麗なんですよ」と続けた。
「確かに綺麗だね。だけど、」
そこで言葉を切り、赤司は手近のシャボン玉に触れた。するとそれはぱちんと弾け、飛沫となり床に落ちていった。
「綺麗なものは、すぐに壊れる」
シャボン玉だったものが染み込んだ床を見つめて呟く。その声はどこか切ないものに変わっていた。
「綺麗なものだけじゃないよ」
不意に顔を上げた赤司は、辺りに漂うシャボン玉に手当たり次第に触れていった。赤司の指先が触れた瞬間、ぱちんぱちんと音を立てて飛沫が飛ぶ。
「あたたかいものも」
ぱちん
「優しいものも」
ぱちん
「緩やかなものも」
ぱちんぱちん
「そういったものは全て脆くて、容易く消えてしまう」
このシャボン玉が良い例だとでも言うように黒子を見据える赤司。今まで黙って赤司の言葉を聞いていた黒子は、その視線を真っ直ぐに受け止め、また輪を作り、そこに強く息を吹きかけた。
その瞬間、開け放した窓から、黒子の吐息に呼応するように強い風が走り、輪から飛び出した無数のシャボン玉が視界を埋め尽くす。石鹸の香りを伴うシャボン玉の襲来に赤司は、咄嗟に腕で顔を庇った。
一陣の風が去り赤司が腕を下ろすと、次に彼の目を奪ったのは黒子の穏やかな笑みだった。先程の石鹸の香りと似た、黒く淀んだものを真白に洗浄するような笑顔。その表情の意味を推し量りかねていた赤司に、黒子はそのまま語りかけた。
「確かに綺麗なものや優しいものは壊れやすいです。でも、新しく作る事も出来るんですよ」
ほら、こういう風に。
黒子は優しい笑みを浮かべながら再びシャボン玉を飛ばす。生まれた球体は時間の経過と共に消えていくが、黒子が新たに量産していく為、0になる事はない。
このようにして綺麗なものも優しいものも作っていけば良いのだと、黒子は行動で示しているのだろう。しかし赤司は納得していないようで、だけど、と小さく声を震わせた。
「新たに作られたシャボン玉は、消えていったシャボン玉に変わる事は出来ないんだ。どれだけひとつのシャボン玉を気に入ろうとも、それと全く同じものは存在しない」
赤司には珍しく弱々しい言葉。彼がそれをどれ程恐れているかが窺い知れる、途切れてしまいそうな呟きだった。
黒子は赤司の言葉を受けて、困ったように眉を下げて微笑んだ。
「……それなら、絶対に割れないシャボン玉を作りましょう」
黒子自身もそのシャボン玉が消えなければ良いと思っているのだ。叶わないと分かっていても、“絶対”が永遠に続けば良いと願わずにはいられなかった。
「そうですよ、そうしましょう。いつまで経っても、何があっても壊れないシャボン玉を作りましょう」
そうすればきっと何も怖くない。どれだけの強風に飛ばされようと、どれだけの豪雨に晒されようとも、シャボン玉は虹色の輝きを失う事は無い。
赤司の瞳が僅かに揺らぐ。黒子の言葉を窺うように、それでもその中に込められた誓いを噛みしめるように。
「…………嘘を吐いた」
「嘘?」
「本当はシャボン玉、きらいじゃないんだ」
息を吐いて、赤司は黒子を見つめた。視線の先にある表情は変わらず微笑みを湛えている。
「ただ、シャボン玉はすぐに飛んでいってしまうから」
どんなに美しくても触れた途端に弾けて消えてしまう。しかし手を伸ばさなければ触れる事すら叶わず飛んでいく。赤司の言葉に黒子はまた、困ったような笑みを浮かべた。
「……飛んで行ってしまいそうだなんて言って、ごめんなさい」
「…………構わないよ」
黒子は約束をしてくれたから。そう続けた赤司の声には、もう仄暗さも切なさも無く、ただ安堵の響きだけがあった。
赤司は黒子と視線を合わせてまた口を開いた。
「黒子、触れても良いか」
「ボクはシャボン玉じゃないです。君が触れたくらいじゃ壊れませんよ?」
一瞬の躊躇の後、赤司は黒子の手に自身のそれを絡ませた。このような触れ方をするのははじめてで、水仕事ですっかり冷たくなった指先が熱を孕んだ掌に落とす雫さえも、かけがえのないものに感じて仕方が無かった。
「壊れないよね」
「壊れませんよ、絶対に」
「絶対に?」
「約束しましたから」
仄かに漂う石鹸の香りの中、ふたりは“絶対”を繰り返しながら手を握り合った。シャボン玉を壊してしまわぬよう優しく、しかし飛ばされてしまわぬよう、強く。
虹色の約束
end