星矢

□見果てぬ夢
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(夢で見たようになればいいのに。この酔狂な願いが届く日は来るだろうか)

 世界中が海に沈んで空は澱み、人は滅んで誰も居ない。氷河と瞬だけの二人きりの世界。
 何て欲望を全面的に表した夢だろうか。しかし、氷河には最上級の幸せだった。指を絡めて沈没した世界を眺めるのはこの上ない解放感と、二人きりであるという事への狂喜に充たされ心が弾んでいた。

(邪魔者はいない。ああ、幸せだ。どれ程渇望したろうか。この世にはもうオレ達以外誰もいない。やっと、やっと、二人きり)


「瞬、何故ーー」

 氷河は、幸せのあまり涙が滲み目覚めたあの夢が、正夢にならないだろうかと願って止まない。
(こうした暗い妄想が届いてくれるならいくらでも思い巡らせるというのに)






「氷河、クマが出てるよ?」

 城戸邸のラウンジで気付いたそれは黒い痣。
 瞬の指が氷河の目元を指した。薄っすらと、しかし強い存在感を持った浅い紫がかった黒い痣。それは欝血とはまた違う。目の周りにだけあるそれは氷河を病人のように見せる、くっきりと浮かんだクマだ。

「もしかして眠れないの?」
「いや、別に」

 氷河自身もクマの存在を知らなかったようだ。目元を擦り興味もなさげにそう言った。

「駄目だよちゃんと寝ないと、睡眠不足は体に悪いんだから」
「いや、ちゃんと寝てると思うんだが……」

 そう言って氷河はまた目元を擦った。眠気は無い。しかし身体がだるかった。一度眠りに就けば朝まで目覚める事は無いし、眠りも深い方だ。
 しかし最近、よく夢を見る。それはそれは、幸せな夢を。いつまでも見ていたいと切望するほどに酔いしれる夢を。その夢のせいで眠りが浅くなっているのかもしれない。
 ぼんやりとそう思いながら、氷河は隣で本を読む瞬を横目に夢を思い出していた。内容は全て記憶している。


『何故、泣くんだ』

 そう、丁度こんな風に座っていた。空中に浮かび、指を絡め互いに寄り添い、沈んだ世界と澱んだ空を眺めていた。人が全ていなくなり、世界中から音が消えた。唯一感じる音は隣にいる愛しき者の心音と呼吸音と、嗚咽だけ。

 そうだ、泣いていた。狂喜乱舞しそうな氷河とは正反対に、瞬は泣いていたのだ。何に対して泣いていたのだろう。それを訊こうとして……そこで目覚めたのだった。


「……夢を見た」

 ぽつりと零す氷河の言葉に瞬が顔を向けた。本を手にしたまま、顔を上げる。一 応、聞く体勢だと解釈して氷河は続ける。

「世界中が沈んで、オレと瞬だけになる夢を」

(オレは幸せに浸っていた。しかしお前は泣いていた。何故だ? お前は、嬉しくて泣いていた? 違う、そんな泣き方じゃなかった。あれはそう、まるで絶望したかのような。悲しくて悲しくて、仕方ないと嘆いているかのように。声に出せない代わりに身体を震わせ咽び泣いていた)

 あの泣き顔が。脳内から消えてなくならない。

(何故だ?)

「そっか……怖い夢だね」
「怖いか?」
「怖いよ。そんなの、ぼくは耐えられない。そんな怖い夢じゃ魘されてクマも出来るよね」

 そう言って細い眉を下げ、氷河を瞬は静かに見つめた。

(怖い? 何が怖いんだ。世界中が沈んで、人類も滅んで、其処にいるのはオレとお前の二人だけ。世界に二人きり。この上ない至福だ。それの何が、 怖いんだ)

「……どうして怖いんだ」
「そんなの、当たり前じゃない。世界が終わるなんて……怖いよ」

(違う違う違う怖くない。幸せだ。だって愛しいお前と二人きり。幸福だ。幸せだ。決して怖くない。怖いのは、本当に怖いのは)

『瞬……何故、泣くんだ』

 夢はここで終わっている。この問いかけに、目から流れ落ちる涙をそのままに。俯いていた顔を上げた瞬は口を開く。その声を、言葉を、聞く事無く氷河は夢から意識を浮上させてしまった。


「そんな世界、ぼくは嫌」

それは、悟ったから。

「……嫌……?」

 夢の中でこの上ない幸せに狂喜している氷河と、静かに嗚咽を零し泣く瞬。

(瞬はずっと泣きっ放しで、その理由をオレは問いかけた。しかし答えようとした瞬の顔を見て、瞬時にその答えが自分の望んだ答えでは無いと悟った。だから強制的に夢から覚めた。聞きたくなかった。お前の口から、聞きたくなかった)

『そんな世界、ぼくは嫌』

(その拒絶の言葉を。怖いのは。本当に怖いのは、その拒絶の言葉。お前の口から紡がれるのが怖い。怖い。何よりも、怖い)

「世界はこうして広くて、沢山の人がいて沢山の出会いがある方が楽しいじゃない」
「……そう、か」

 氷河は悟っている。分かっている。この夢が叶う事は無いと。この世のどこにも無い、どこにも居ない、独り善がりの幸せな夢物語は今ここで拒絶されて終焉を迎えた。
 ならばせめて、今宵も心充たされ酔いしれる独り善がりな夢へと導いてくれと願った。二度と目覚めたくないと願う程、幸せな夢へと。どうしたって、夢は現実のものになりはしないのだから。


(夢の中だけでも、お前を独り占めしたいと願うオレをどう思う?)

 どちらが現実でどちらが夢なのか。また、何が幸せな夢で何が悪夢なのか。
 区別がつかなくなるその前までに。


(瞬を引きずり込めればいいのに)


 薄暗い願いが叶わない事を知っていて尚、氷河は希って俯いた。






*見果てぬ夢*

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