月映

□[9]
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 左様なら、我が友人よ。
 エンジンを蒸し、深く腰掛ける。
 機械だらけの道を駆け抜け、赤く切り取られた空へと向かう。次々と後方に流れていく風景に目を向ける事なく、ただ真っ直ぐ、空を目指す。

 周りに己と同じ型の機体が映る。夕暮れの空に飛ぶ飛行機は、些か不似合いだと思った。それでも赤さには、重厚な機体の黒は、ひどく美しく映えていた。



 黒子の所に、もうすぐ行こう。
 沢山の思い出の綴られた手紙は、もう終わりの頁を見開こうとしている。
 オレの愛した人の最後の言葉は、オレの為の、儚い祈りだった。





『――君には、生きてほしかった』



 日に日に黒子が衰弱していくのを、オレはただ、見ている事しかできなかった。
 手を握り、ぽつりぽつりと話をしてやる。黒子の手は、悲しくなる程冷たかった。
 それでも窓の外の景色はまだ変わる事もなく、少しだけ、雨を切り抜けた強い花達が、更に大きく身を広げたくらいだ。瞳を閉じている黒子は眠っているように見える。しかし、「黒子」と呼び掛けると、「何ですか、赤司くん?」と応える事があった。


「起きてたのか」
「はい。……何だか、眠ったら帰ってこれないような気がして」
「……そうか」

 人はこんなにも急激に死に往くものなのかと、胸が苦しくなる。
 華奢な手足はまた一回り細くなった。笑う回数が減った。ただ、段々とさらに頬が白くなり、作り物のような美しさを増していく。

 毎晩毎晩、夜が怖かった。
 寝息を立てるその声が、いつの間にか絶えてそうで、ずっと黒子の顔を覗き込んで夜を過ごした。
 手を放さなかった。
 咳込む度に、行かないでくれと強く抱き締めた。すると黒子は、くすりと笑うのだ。「まだ大丈夫です」と。



 五日が経った。
 黒子は眠り続けている。まだ、息をしていてくれる。
 綺麗な月だ。
 窓辺に椅子を置き、黒子の隣で月を見上げる。銀色の光が黒子の魂を連れていってしまいそうで、ぞくりとして、黒子の指に自分の指を絡ませた。黒子の心が、身体から離れようとしている。

 額に黒子の手を当てる。
 二度と放したくない。死んでほしくない。オレと一緒にいてほしい。願わくば、オレをすきになってほしかった。ああ、すきだ。すきなんだ。
 もう黒子しかいらない。
 だから神様、黒子を奪わないでくれ。


「黒子、すき」

 すきだすきだ。

「すきなんだ」

 すきですきで、堪らない。
 黒子がいなくなったら、生きていく意味を見失いそうだ。
 オレだって、後を追ってすぐに往く身だ。だけど、この思いは死後の世界で伝えられるのか。無理だろう。ならばこの世で、君といきたい。
 オレは黒子といきたいのだ。



「……テツヤ」
「……赤司くん」


 顔を上げると、黒子が微笑んでいた。オレが掴んでいる右手に、左手を重ねてくる。

「……起こしたか?」
「いえ、もう少し前から起きてたんです」

 くすっ、と「さすがに照れますね」なんて笑うから、聞かれていた事に少し照れ臭くなった。

「赤司くん、照れてるんですか?」
「ばか、照れてないよ」

 すると、久し振りに黒子が声を上げて笑った。






 雲の上を飛行していたが、機内の放送で戦地が近いと受け、高度を落とす。
 雲の下に出ると、遠くに小さな黒い点が幾つも揺れている。米軍だ。「健闘を祈る」と告げる声は、ひどく嘘臭い。その後に続く「日本帝国の為に」の方が、更に投げやりだった。

 ずっと遠くに基地が見えた。
 だからオレは、そこに突撃する事を決めた。

 ミサイルが飛んでくる。かわす。周りの機体が海に散っていく。
 悲鳴が小さく響く。見ると、ひどい形相で落ちていく。
 遠くが光る。熱い。思わず怯む。
 油断するな。やられるな。せめてあそこに辿り着け。
 弱いオレは脱ぎ捨てろ。
 たった一人を愛したオレを閉じ込めろ。
 今はただ、進むのだ。





 こほこほと咳を吐き出す黒子を、腕の中に抱き込む。そっと背中を摩ってやると、こてん、と黒子が頬を肩に擦り寄せてきた。
 心臓が跳ね上がる。体温が上がる。
 それを感じて、黒子がまた笑う。

「今、心臓速くなりました」
「嘘吐け」
「ほんとですよ、すごく速いです」
「速くない、これが普通だよ」
「じゃあ、さぞ赤司くんの心臓は毎日忙しいんですね」

 ああ、こうして話していられるだけで、幸せだ。
 腕の中の体温を、愛しく思う。






 右翼が吹っ飛ぶ。
 平衡感が崩れ、ハンドルを強く握って持ち直す。
 まだだ。まだ生きている。
 眼下に横たわる海。塵。
 まだだ。まだ倒れてたまるか。

 黒子は最後まで、最後の最後まで、抗い続けた。運命に従いながらも、呑まれる事だけは許さなかった。死のどろりとした感覚に飲み込まれそうになっても、必死に手を伸ばした。

 そしてその結果、彼はその手に、光を掴んだのだ。






 おかしいと思ったのは、さ迷う仕草もなく、オレの頬に触れてきた時だ。
 いつもなら、オレを引っ掻いて傷付けまいと、彼から手を伸ばしてくる事はなかった。けど、その時の黒子は違った。
ふっと柔らかく、オレの頬に触れたのだ。緩やかに、温かく笑ったのだ。



「黒子……?」
「……ふふ」

 苦笑のような響きを持つ笑いに、首を傾げて顔を近付ける。
 まだ枯れていなかった涙が、またぽろりと落ちる。
 それを、黒子が拭う。
 黒子でなければ当たり前にできる仕草。けど、黒子にはできない筈の仕草。

「黒子……お前……」
「最初に見た赤司くんの顔が、まさか泣き顔だなんて」
「見え、て……っ」

 もう一度、黒子が笑う。


「月が、綺麗ですね」


 ああ、涙が止まらない。
 微笑を浮かべる横顔が、幻想のように思われる。
 両の掌で、黒子の頬に触れる。黒子が擽ったそうに、目を細める。
 夢じゃない。嘘じゃない。
 黒子の瞳に、オレの泣き顔が見えている。確かに、映っている。
 抱き締めようとしたら、「赤司くんの顔、見えなくなっちゃいます」と拒まれた。笑って、頭を撫でてやる。


「桜、散らなかったんですね」
「ああ。満開の桜、黒子と見られて良かった」
「……すごく綺麗です……」

 何年振りの光だったのだろう。
 眩しそうに目を瞬く様を、オレは永遠だと思い込んだ。
 けど。そうじゃない。

「あ……」と呟く唇が、ゆっくりと噛み締められる。疑問に思って顔を寄せると、黒子は視線を落として息を吐いた。
 切ない笑みが、月みたいだ。

「……駄目ですね」
「黒子?」
「もう、お別れみたいです」

 はっとした。
 また光が失われようとしている。
 肩を掴む。鼻と鼻がぶつかるくらい顔を近付ける。黒子が目を丸くした。

「赤司くん?」
「黒子、すきだ」

 暫く、黒子が黙った。
 勝手な思いを押し付けて、悪いと思った。けど、どうしても伝えたかった。目を見て、真っ直ぐに伝えたかった。
 黒子の指が唇をなぞる。
 黒子の気持ちが読めなくて、視線を外す。



「赤司征十郎」



 呼ばれて、黒子を見る。
 徐々にその瞳から光が薄くなっていくのが分かる。
 頼むから、オレなんか見てないで、見たがっていたあの桜を見てよ。せっかくの光を、オレを見る為なんかに使わないでくれ。

 多分、オレの言いたい事を、黒子は分かっていた。そして、首を横に振ったのだ。

「ありがとうございます。君がいたから、この瞬間まで生きてこられた」
「くろ、こ……」
「ありがとうございます。ボクは、幸せです」





 エンジンがやられた。水面がぐんと近付くのを、いっぱいにハンドルを引いて免れる。
 基地まで、もうエンジンを全力で使い続けないと、時間的にも無理が生じてくる。もう、行くしかないのだ。



「黒子」


呟く。


「生まれ変わったら、またオレと巡り会ってくれないか」

 かさかさと、ポケットの遺書が揺れた。それが、返事のように聞こえた。
 くすっと笑う。黒子の控え目な笑いが過ぎった。



 黒子に、沢山の幸せを貰った。
 胸の痛みも、焦がれる気持ちも、苦しいくらいの欲情も、息を止めたいと願う程の愛しさも、辛さも、喜びも、涙も、沢山沢山、黒子に教えてもらった。与えてもらった。

 全部全部、大切な思い出だ。
 黒子と過ごしたあっという間の日々は、オレの世界を輝かせた。
 この広く果てしない世界で、たった一人だったオレの側に、黒子はいてくれた。

 手を握ってくれた。

 笑ってくれた。

 慰めてくれた。

 伝えてくれた。

 救ってくれた。

 黒い世界の闇から救われていたのは、オレの方だった。


 だから、――行かなくちゃ。

 操縦桿を力一杯引く。
 世界に音が、闇が、風景が無くなる。
 喉が潰れるくらいに叫んだ。
 熱さも痛さも渇きも、気にならない。
 咆哮が風を切り裂き、炎に包まれた機体が一直線の軌跡を描く。







 爆発音が、遠くに聞こえた。


 生まれ変わったら、また出会おう。
 オレはまた、間違いなくお前をすきになるだろう。黒子テツヤを愛するだろう。
 だから、もう一度、巡り会えたら、オレと恋をしてくれないか。
 オレと人生を共にしてくれないか。
 そうしたら、オレは、永久に幸せでいられると思うんだ。

 黒子、「ありがとう」は、本当はオレの台詞だったんだよ? 会ったら、まずは文句を言ってやろう。それから、笑って頭を撫でてやる。多分黒子は怒るから、また笑って、それから、それから――――




  

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