月映

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 ボクの世界は何も無い。
 広がるのは、漆黒だけだ。
 時折現れる光も、近頃はもうほとんど見えなくなった。あんな微かな光にさえ、見捨てられたようだ。
 全てに光があった頃の事など、もうとうに風化し、記憶から抜け落ちてしまった。



「それじゃあ、お大事に」
「どうも」

 隣の寝台が軋み、人が来た事を知る。
看護婦が去ったのだろうか、暫く静寂が部屋を満たす。
 ボクが知る限り、この病室にいるのはボクだけだから、今隣に運ばれて来た人間が、この部屋の二人目の患者だ。

 不意に、「やぁ」と声がした。「はい?」と返事をして振り返る。


「こんにちは、オレは赤司征十郎」
「……黒子テツヤです。宜しくお願いします」
「黒子だな」

 微笑んでいるのが目に見えるような、優しい声音だ。そして急に掌を掴まれる。
 驚いて顔を上げると、「ほら、握手」と手を繋がせられ腕を振られた。


(……この人、何か変わってるっていうか、不思議っていうか……)

 戸惑う。こんな風に接せられたのは初めてだ。いつも盲目というだけで、人は自分と一歩距離を置き、同情の色を感じさせた。本当には見えなくても、その目をしているであろう事ぐらい、分かった。


(悔しい、そんな目で、ボクを見ないで)

 始めは同情を振り撒く周りの人間が嫌いで疎ましくて憎くて仕方が無かった。
 けれど、時は慣れを引き寄せる。
 そういうものなんだって、漸く理解した。慣れたのだ。だから惑う。迷う。

 ――いや、まだ彼は自分の目が見えていない事に気が付いていないのだろう。
 だからそんな顔ができるのだ。
 知ったら彼も離れていくに違いない。
 中途半端な喜びなど、欲しくない。ボクはそんなもの、望んでない。

「赤司、くん」
「うん?」
「ボク、目が見えないんです」
「へぇ」

(……は?)

「へぇって……、」
「別にそんなの気にしないよ。そんな事で黒子が変わる訳じゃないだろう」

 そんな言葉、初めて聞いた。『そんな事』で済まされたのも、初めてだ。
 ああ、どうしよう。声まで無くしてしまったみたいだ。
 ボクの困惑を読んだのか、くすりと赤司くんが笑った。温かい掌に、掌が包まれる。

「オレは、戦線で怪我をして運ばれて来たんだよ」
「戦線って……、米国とやってる」
「そう、それ。――沢山の奴が、そこではすぐ隣で死んでいくんだ。毎日、毎日。あの時立っているのがもう一歩前だったら、死んでいたのはオレだった。あの時振り返っていたら、地に臥していたのはオレの方だった。相手の武器で腕や足を無くした奴、火傷で顔も分からないくらいひどく焼かれた奴、兵器で目をやられた奴だっている。……今、怪我をして戦線を離脱してここにいられるのは、途方もない奇跡なんだ」

 ボクの知らない世界だ。
 ここでだって、人は毎日のように死んでいく。しかし、それは皆承知の上での死だ。

 ここの人達の殆んどが、自分の残された時間を知っている。抗いようのない事だと分かっているから、その最後の一瞬迄、全力で生きようとする。
 人間の一生は短い。だからこそ、密度の高いものにしようと、もがき、そこに立ち続けるのだ。
 突然奪われる生など、知らない。
 突然訪れる死など、知らない。
 そういう空間で生きる盲目の兵士に思いを馳せてみる。自分の身が、何と情けなく小さい事か。
 彼らは、それでも尚、立ち向かい続けなければならないのだ。
 こわい。そう感じた。
 なのに目の前の彼は、何て優しく笑う事だろう。

「……あったかいな」
「え?」

 ぽつりと零れたような呟きに、思わず聞き返す。首を傾げていると、もう一度、ぎゅっと握られる。赤司くんの熱が、手の中に広がる。

「黒子の手。あったかい」
「人と比べたら冷たいって言われますよ」
「いいや、あったかいよ。凄くあったかい」

 生きている人の手を握ったの、久し振りなんだ。
 そう彼が呟いたから、ボクはまた、結局言葉を選べなかった。口先だけの言葉じゃない。彼には、ちゃんとしたボクの言葉を伝えたいと思った。こんな気持ち、初めてだ。
 握られている手に、もう片方の手を重ねる。「黒子?」と声がした。

「どうかしたか、黒子?」
「あ、いえ……、なんとなく」
「はは、なんだそれ」
「べ、別に良いじゃないですか、何でも」

 ハイハイ、と笑った君には、内緒。
 生きているって伝えたかったこと。今君は生きているんだって、言いたかった事。
 当たり前のような事を奇跡と言った赤司くんに、教えてあげたかった。
 君は生きている。ボクの隣にいて、温かく笑っているよ。
 ボクは生きている。死と隣り合わせながらも、今生きている。まだ競り合っていられるんだ。

 またあしたも、同じようにいられたら、それはどんなに幸せな事だろうなって。

 時を駆け抜ける小さな兵士よ。
 君に捧ぐ物語。
 君に伝えたかった言葉。
 今更なんて言ってほしくないけれど、ボクには叶えられませんでしたから。
 これを読んでくれている時、君の世界はどうなっているのでしょう。
 ボクには知りようがない事だけれど。
 どうか、君が幸せであるように。
 祈りに代えて、君に贈る。
 ボクの、人生最後の友達へ。



 

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