保管所

□受話器(かいけつゾロリ)
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都会の夕刻。
高級マンションの一室で、換気扇の作動音と肉が焼ける音がする。
部屋の持ち主が料理をしているのだ。
フライパンの上で、持ち主が食べるにしては大きすぎるサイズのハンバーグが肉汁を流している。
これは作り手が食べるものではない。

焼き目がつき、かつ焦げない程度になったのを確認して、シンディ・クロヒョードはコンロのスイッチを消した。
集中してフライ返しで皿に完成品を乗せる。
「やった、できたわ」
彼女は料理が得意ではなかった。
トップモデルとして国中を駆け回る毎日で、自炊をする機会や必要性がなかったからだ。
しかし、今日は久々のオフで自宅に戻っていた。
そして、自分で料理をしたいと思えるだけの理由があった。

先にカットしておいたサラダをハンバーグの隣に置けば完成だ。
何だか大きな仕事をやり遂げたような気がして、顔が自然とほころぶ。
既にリビングのテーブルにはピザやワイングラス等を準備している。
全てはハンバーグを食べる相手のためだ。

家の電話が鳴った。
「あら?」
仕事の連絡かと思い慌てて台所を出る。
シンディの家の電話は相手の番号が表示されるようになっている。
登録しておけば相手の名前も出る。
ただ、今回は見慣れない番号だ。
仕事ではないようだ。
いたずら電話ならもっと狡猾にやるだろう。
となると、候補は一人しかいなかった。
嫌な予感を押さえつつ受話器を取った。

「はい、もしもし」
「シンディさんですね?」
穏やかな声はやっぱりイヌタクだった。
「タクジさん、今日来られないのね?」
言われずとも用件はわかっていた。
「……ごめんなさい!」
おそらく、電話しながらこちらには見えもしないのに頭を下げているのだろう。

「しょうがないわ。だってお仕事ですもの」
シンディは優しく語りかけた。
実際怒ってはいない。
「仕事で迷惑をかけているのはいつも私だもの。タクジさんがたまにドタキャンしたって罰は当たらないわよ」
「でも、シンディさんは売れっ子の有名人じゃないですか。僕はただの巡査ですよ」
『巡査』の部分にシンディは即座に反応した。
「もう巡査じゃないわ、巡査部長よ。今日はその御祝いだったでしょう?」

初めて会ったときから、イヌタクは時間があるときは常に勉強を怠らなかった。
父が動物警察のエリートという出自も関係あるだろうが、彼の昇進は彼自身の努力によるものだ、と信じたい。
「そ、そうですね、すみません」
電話の向こうで謝ってばかりだ。」
「だから私は大丈夫よ、ね。……仕事ってまた『かいけつゾロリ』が絡んでるの?」
彼が追う男の名を出した途端、胸が痛くなった。
何もこんな話題を振らなければと後悔した。

「は、はい!あのかいけつゾロリです!今度こそ逮捕できそうなんですよ!」
それまで元気がなかった恋人の声が、急に活力に溢れたものとなる。
「そう。私あなたの仕事への姿勢を本当に誇りに思うわ。あなたみたいな警官ばかりならいいのに」
その言葉に嘘はなかった。
が、本当はもっと別のことを聞きたかった。
でも怖くて聞けない。

「あっ、これからもうすぐ会議があるんです。そろそろ失礼します……本当にごめんなさい」
「ふふ、怪我をしないように気を付けてね」
「ありがとうございます。では」
どこかの電話が切れた。
イヌタクは携帯電話を持ってないのだ。
かいけつゾロリの一味を追おうとする者は、あのような精密機械はすぐ使い物にならなくなるという。
それだけ追跡は危険だということだ。

シンディは受話器を見つめた。
既に相手がいないそれを再び耳につける。
「タクジさん、あなたがもしかいけつゾロリを逮捕したら……ゾロエさんが見つかったら……ゾロエさんが今でもあなたを好きだったら……私はどうすればいいの?」
さっきは聞けなかった質問をしてみる。
返事がくるはずないと、わかっているのに、やらずにはいられなかった。

ゾロエが生きていてくれたら、勿論嬉しい。
だが、結婚式を挙げるほど愛し合っていたと聞いている二人がもしまた出会ったら、自分の存在価値がなくなるのではないかと心が押しつぶされそうになる。
まるでゾロエが不幸であって欲しいと思っているようで、そんな自分がまた汚らわしく思える。
イヌタクが自分とかいけつゾロリとの因縁を、そしてゾロエの存在を教えてくれた日からずっと不安を忘れることができない。
深い自己嫌悪と、イヌタクと交際ができる幸福感が入り交じっているのが、今のシンディだ。

受話器を戻し、大きなため息をついた。
健全ではないが、しばらくは問題を先延ばしにするのが一番だろう。
「ワイン飲もうかな。さっきのハンバーグ、半分だけと」
今日の残りの予定を決めて、シンディは主役の来ないパーティーの準備の続けに台所へ戻っていった。

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