懐石 花見月

□9.椀物
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9.椀物

「なんで」
「もうひと月以上経っちゃってるし」
「理由になってねえ。今日何があった?」
「な、何もないよ。ただ出ていかなきゃなって」
「そんなに急ぐ必要ねえだろ。店が被害にあって"まだ"ひと月だ。それに家出るって言ったってその後どうすんだ」
「…家借りてもらって、バイト始めて一人暮らしするよ」
「なんでわざわざ」
「迷惑、かけたくないし」
「………家の誰も迷惑だなんて思ってねえだろうが。なあ、何があったんだ」
「……ごめん」
「…どうしても言わねえか」

焦凍くんは向かいに座って真っ直ぐに私を見る。私は射抜くような彼の視線に居心地が悪くて、ずっと焦凍くんの口のあたりを見ていた。

「…ごめんね、急で」

それだけ言ってぺこりと頭を下げ、使わせてもらっている部屋に引っ込んだ。絶対納得はしてもらえないし理由も言えないけれどこれでいいんだとも思う。あの子が何度もここへ来るようになってしまったらみんな困るだろうし、私がこの家から出て行くのが望みなら不本意だけれど言う通りにすればそれ以上はないだろう。きっと。

私は暗い部屋でいっそ本当の家族だったらよかったのにと思って膝を抱えて泣いた。ただの他人が一緒にいるには肩書きや名前や理由がいる。でもあんなに優しい人と一緒にいたら私は自分の都合のいいように簡単に勘違いしてしまうから、本当に迷惑をかけてしまう前にこの家を出なければ。


翌日、早朝に起きてみんなの朝食を用意して家を出た。今日帰ったらおじさんと冬美さんにも話をして数日のうちに荷物をまとめて、と段取りを考えていたけれどそう穏やかにことは終わらないのだと思い知ることになる。

「透子ちゃんだよね?」

委員会と日直の仕事が重なってすっかり日が暮れてしまった。窓から見える空はもう紺色で、急いで荷物をまとめて校門を出たら見慣れない男の人達に声を掛けられた。大学生…?全く面識のない4人のうちの1人がニヤニヤしながら私の肩を雑に抱いてきて、その力強さに私は凍りついたように身体が固まってしまった。一体なんだろう?そしてどうしてこういう時周りには誰もいないんだろうと思ったけれど、この人たちはそれを見計らってるんだから当然かと他人事のように思った。

「なあ、恨むなら如月を恨んでくれよ。俺らだってやりたくてやるわけじゃねえんだ。オーケー?」

一番端の人が運が悪かったねえと笑った。如月って誰だと思ったけれどすぐに1人思い浮かんでしまった。頭の中で警報が鳴り続けている。肩を抱かれたまま引きずられるようにしてさらに人気のない路地裏に連れていかれた。

「な、何するつもりなんですか。っ大声出しますよ」
「出せばいいんじゃない?トドロキくんに迷惑かけたいならどうぞご自由に」
「……は…?どういうことですか?」
「知らねえよ。知ってても教えてやる義理もねえし。」
「………『早く出ていってください。あと警察に言ったらトドロキくんちに火をつけて私も一緒に死にますよ』って。…如月怒らせるとホント厄介なんだって。覚えときなよ」










「くっそ…」

なんと顔面、首、膝、肘は擦り傷だらけ、どこもかしこも殴られ蹴られボコボコにされたのできっと明日にはアバターさながら全身真っ青になっているに違いない。途中から自分はサッカーボールなんじゃないかと錯覚したほどだ。誇張ではなく生きて帰ってこれたのは奇跡だった。
がむしゃらに走って逃げて、息が切れて走れなくなってからは震えが止まらないままよたよたと歩いた。現実感がまるでなかった。

腕時計を見たら20時になるところだった。もう見慣れた門扉の前で、冬美さんに、焦凍くんにこの傷をどう言い訳すればいいんだろうと途方に暮れた。見られるのも話すのも怖くて仕方がなかった。呼吸がうまくできなくなって、全部が怖くてこのまま消えてしまいたくなる。
へたりこんで、たすけてと呟いた時門扉が開いて足元に光がさした。


「志摩嶋…?」


焦凍くん、私は単純だから君の顔を見た瞬間にあれこれ考えていたことが全部吹っ飛んでしまったんだよ。プツッと意識が途切れる瞬間、私を呼ぶ焦凍くんの大きな声が耳に響いた。


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