出航!

□第一章 黒のテンペスト
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 午前中は、ダズと護身術のトレーニング。
 午後は、買い出し。

 ここ2週間、平穏と言うべきか、大して何事もなく毎日が過ぎていった。
 結構きつい護身術のトレーニングも、もう慣れてきて、ダズには、筋がいいなと褒められた。買い物も、顔馴染みの店がちらほら出来た。


 それから、ホテルの部屋のピアノを少し弾かせて貰った。
 ボスが不在で、ダズが出かける前だったので、一応、許可をもらった。




「あのピアノって、弾いても大丈夫?」

 リビングの奥を指さすと。


「いいと思うが、弾けるのか?」

 意外そうな顔をした。



「うん、少しだけど。ボス、ピアノ好きかな?」
「好きだと思う」


ダズが即答した。


「喜んでくれるかな?」
「曲にもよるな」



 そう言ってダズは出掛ける準備をするために自室へ入って行った。






 手始めに♪ラの音を弾いてみる


 ポーーーン


 う〜〜〜〜〜ん、キレイ




 ♪ベートーベンのソナタ”悲愴”第二楽章


 うん、ちゃんと覚えてる。
 この曲は、メロディーとは裏腹に指が忙しい曲でもあるが、学生時代何百回も弾いていた曲だったので、指も動く。


 ♪

 こうして、ピアノを弾いていると、ここがどこだか忘れそう。




 ♪ショパンのエチュード25−5



 ああ、忘れてしまったかと思ったけど、指が動く! それにこのピアノ、綺麗な音!






 ああ、楽しい!!!

 でも、私こんなに弾けたっけ!?





 パチパチパチパチ……

 出掛けたと思っていたダズが、ドアの前で拍手をした。



「あ、ダズ。まだ、出掛けてなかったの?」

「ああ、驚いたぞ。凄いじゃないか」

「へへ、あ、ダズ、このことは、ボスには黙っていて欲しいんだけど」

「どうしてだ」

「3曲ぐらいちゃんと弾いて、ボスを驚かせたいの」

「そうか。約束する。じゃあ、行ってくる」

「行ってらっしゃい」



 返事の途中でダズは、急いで出て行った。




 少しだけ感じた違和感。何だろう……。そうだ今度は、あの曲。

 ♪モーツアルト ソナタ8−1
 上手く弾けなかった思い出の曲、だった筈なんだけど。

 嘘、弾けてる!!!

 ああ、でもなんだろこの宙に舞うような感覚は。頭の中の歌がそのまま手に指に伝わり、動かされているような……。

 指が、腕が勝手に動く。音が押し寄せる!

 ああ……気持ちわるい。

 止めないと。


 あれ?……止まらない。


 止めないと。



 ♪

 結局最後まで弾いて止まった。

 気持ち悪かった。
 何だろう。


 蓋を閉めピアノから離れた。





8-2



 この街の、おだやかな雰囲気のせいか、意外に早くダズもアサヒも、この街に馴染んできたようである。
 食事の買い出しも、頼み事も、難なく二人はこなしている。
 アサヒに関しては、物覚えも良く、何かと気がきく、ダズから聞けば護身術のトレーニングも順調らしい。とりあえずだが、アサヒという拾いものは、徐々にだが、ものになりそうだ。
 ここに着いてから、2週間か。そろそろ休日でも与えてやるか。

 夕食の後、そんな考えを巡らせていると。





「ボス、おやすみなさい」


 パジャマ姿のアサヒが声をかけた。およそ色気の無ぇTシャツに、七分丈の青と白のボーダーのパンツ。寝像の悪いアサヒにはぴったりな選択だと思った。
 返事などしたことが無かったが、今日は明日の事もあるので答えてやった。



「明日、暇をやる。好きにしていろ」

「へ?暇って?休みの事ですか?」

「ああ。買い物するなり、遊ぶなりしていろ」

「じゃあ、ボスの食事の準備は?」

「ルームサービスもある、心配するな」

「ダズは?」

「あいつも休ませる。暫く、休み無しだったからな。アサヒは、街の地図は覚えたんだろうな」

「はい、だいたいは」

「一人で街を歩くときは、気を抜かず。常に注意を払うこと。解ったか」


「はい。ボス」



 嬉しそうに部屋に戻る後ろ姿を見送った。
 部下のプライバシーも尊重してやらねぇとな。特にあいつは女だ。ダズと一緒じゃ買えないものもあるだろう。入りたい店もあるだろう。俺もこの島に着いてから、情報集めと下調べで頭が一杯だった。
 おまけに、このホテルはある人物から提供された物件であるがために、常に気が休まることがなかった。出来れば関わり合いたくねぇ奴だが、好都合にも、奴も忙しいらしく、しばらく音沙汰ねぇ。
 次の標的が出来るまでは、ここでゆっくりさせてもらう。










 夜も更けてきた頃




 ドスン



 アサヒの部屋の方から音が聞こえてきた。

 こんな時間に……。

 まさか奴か!
 



 今夜に限ってダズは仕事で街に出ていた。

 胸騒ぎを感じ、アサヒの部屋へ入った。



 ベッド脇のランプが淡い光で室内を照らしているおかげで、何が起こったのか一瞬で理解できた。




「クッ!」


 頭から落ちたのか、逆さまの状態で、片足はかろうじてベッドに乗せてはいるが、Tシャツがめくれ腹が出ている。しかも、落ちたのにかかわらずスヤスヤと寝息を立てながら、気持ちよさそうに眠っている。



「ったく。おい」


 顔を叩くも身体をゆすっても起きねぇ。
 そう言えば、こいつは一度寝るとなかなか起きねぇ!
 仕方なく抱き上げベッドに寝かせた。毛布を掛けてやり、首がむずがゆそうにしているので、首元に掛る長い髪をそっと払ってやると、顔を傾け頬笑んだ。その顔が余りにも幸せそうで、もっとよく見ようと、うっすら汗をかいた額から髪を払い、顔を近づけ、頬にそっと手を触れた。暖かで柔らかな肌からは、シャンプーの香りがした。


 いつ以来だろう。


 こんな風にじっくりと女の顔を見たのは。
 気まぐれで女を抱いた後でも、こんな風に眺めることはなかった。興味も湧かねぇ。何かに惹かれるように頬に口付けた後、無防備で化粧気の無ぇ顔また見つめた。



「…ん……ん…」


 アサヒが声を出し、寝返りを打ったのに驚き手を離した。


 何をやってんだ、俺は!


 思わずしてしまったというのが正直なところで、自分自身の行動に困惑しながらアサヒから離れた。









8-3




 ピピピピ…


 目覚ましを止め起き上がった。無駄に大きいベッドから降り、洗面所へ向かう。

 なんと今日はボスから休日を頂いたのだ。何をしようか大体もう考えていた。


 @ 朝いちで、アーサー音楽堂に行く。

 A 近くのカフェでランチ。

 B自分の身の回り品の買い出し。

 C夕食はホテルの近くのお惣菜屋さんのパスタ。





 “何かと必要だろうから持っていろ“とボスから頂いたお金は、まだ封筒にたくさん残っている。ありがたく遣わさせて頂きます。



 朝食は、ボスがもう出てしまったので、ダズと2人で済ませ、ダズは食後、早々に出掛けて行った。
 普通のお店って10時ぐらいに開店するんだよね、まだ8時か。

 部屋を片付け、リビングのピアノの上やテーブルのわきに置かれた、ふちがクシャとなった新聞をまとめる。ボスが読んでいた新聞で、ボスが持つと、だいたいこうなる。それでもまだ8時半。ピアノの蓋を開けてみた。



「よいしょ。」

 蓋を全開にして空気を入れる。


「ずっと閉まったまんまじゃ気持ち悪いよね。」

 独り言を言いながら、鍵盤へ向かった。


 ボスはどんな曲が好みなんだろうか?
 バロックかな、ロマン派かな?



 ♪バッハのシンフォニア7

 シンフォニアの中では有名な曲。
 譜面は簡単そうに見えるけど、これが結構難曲!
 バッハ特有のかっこいい曲調を滞りなく弾きこなすには時間がかかった。


 とりあえず、ゆっくり弾いてみた。


 せっかく覚えたので、次の曲に移ってからも、練習の前や後によく弾いていた。楽譜が頭に浮かぶ、うん、覚えてる。




 ♪ベートベンのテンペスト第3楽章


 ボスと言えば、砂嵐(サーブルス)!
 なのでテンペスト(嵐)


 大学2年の時、コンクールで弾いた曲。
 この頃はまだ両親がいて、コンクールの決勝に残ったことを凄く喜んでくれたっけ。懐かしいなぁ。





 うん、意外と覚えているものなんだな。
 あの頃みっちり練習して、コンクールが終った時、気が抜けたみたいになったっけ。

 次第に心がピアノに入っていくような感覚に囚われた。

 頭がグランと揺れた。

 マズイ

 止める!

 ピタ
 指が止まった。


「ふう、危なかった。また、クラクラするところだった」


 でも、掴めてきた。あの兆候が出始めたらすぐに“止める“と念じると止まる。その調子で、数曲弾き、欲しい楽譜をメモった。




 ジーンズにノースリーブのチュニックにカーディガンを羽織った。10時にホテルを出て、目的のアーサー音楽堂へ向かった。



 カランカラン…



 ドアのベルがさわやかに響いた。
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