短編集

□泣き笑えない
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 空っぽになった自宅。妙に広々と感じる同居人の部屋。家具を置いていた跡も、日に焼けた跡もなく、ただ真っ白い壁紙と木目調のフローリングだけが俺を出迎えた。
 他のどの部屋を覗いても笑ちゃんと一緒に住んでいた形跡がなにひとつとして残されてはいない。
 目を瞑れば彼と生活をしていた記憶がまざまざと蘇る。
 休日には一緒に買物をして笑ちゃんとお揃いのマグカップを買ったり、笑ちゃんの隣でぶるぶると震えながらホラー映画を一緒に見た記憶も新しい。体を抱き締めれば、あの日この身に刻まれた彼の熱を思い出すことも出来る。
 けれどもう俺の傍に笑ちゃんはいない。

「笑ちゃん、何処に行っちゃったの?」

 慌てて家を出て住宅街を探し回った。すれ違う街の人には何度だって笑ちゃんを知りませんか? と問いかけたんだ。誰も何も知らず首を横に振るばかりだった。
 行き付けの喫茶店にも、あの日一緒に足を踏み入れた雑貨屋さんにも、役所にだって奔走した。しかし笑ちゃんを知る人は誰もおらず、それどころか自責の念が重くこの体を蝕むだけだった。

「こんなことなら、気付かなくちゃよかったんだ」

 デスクワークを生業にしている人だってふとした拍子に顔に傷を付ける瞬間があるかも知れない。現場に間違えて侵入してしまっただけ、笑ちゃんが特刑だなんて有り得ないと、自分の思い過ごしであればよかったんだ。
 なのに笑ちゃんは寂しく笑って俺の前から姿を消した。

「なんで、なんでだよ……笑ちゃん」

 俺は突如として降り出した強い雨を一身に受けながら、重たい体を引きずり歩いた。
傘も持たず、ただコンクリートに打ち付ける大粒の雨とともに一筋の雫が頬を濡らす。

「寂しいな」

 突然の雨に沢山の人が走り抜けていく歩道のなか、静かに立ち止まり灰色の天を仰いだ。光のささない空は淀み、まるで俺の心と同調しているようだった。幾重にもなる雫が目尻から頬、顎先へと伝い落ち、唇をきつく結ぶも雨粒は落ちていく。
 目の敵にしていたはずの存在が何食わぬ顔で共に生活をしていた。それだけならば怒髪天を衝くだけのはずだった。しかし相手はあの笑ちゃんだ。怒りよりも身を裂くような思いしかない。
 歩みを止めた俺はもう二度と笑ちゃんに会うことはできないだろう。会えたとして、彼はもう一度微笑んでくれるのだろうか。いや、そもそも俺に見せてくれていたあの何処か控えめで大人びた笑顔は本物だったのか。俺に見せていたものは全てが偽りの姿で特刑に身を置き、無闇矢鱈に処刑を繰り返す連中たちの前で晒していた姿が本当の笑ちゃんだったのか。
 俺にはもう分からなかった。道路を飛び出し、笑ちゃんと再会を果たしたあの桜の木へと走り出してもなお何も分からない。

「ねぇ笑ちゃん。笑ちゃん! お願いだ、戻ってきてよ……」

 笑ちゃんが姿を消した日、何時間もの間降りしきる雨に体を委ねた。いくら考えても分かりやしない彼の思考や居場所、それまでの彼の本性。
 ただ募るは笑ちゃんを変えてしまった特刑、そしてこの国への恨み。だがこうなることも全て彼の思惑通りだったんじゃないだろうか。笑ちゃんは俺の気持ちを分かった上で、あんな役回りをさせたのか。自分の身を滅ぼして、俺の心を壊させてでも、この世界を、大切な人たちが生きやすい場所を作ろうと懸命に生きたのか。

「蓮井さん、雨も強くなってきてしまいましたから部屋に戻りましょうね」

 満開の桜を散らす篠突く雨の下。

「しょ、ちゃ……」

 俺は何度目とも数えられないほどその名を呼び続けた。

⇒あとがき


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