短編集

□小鳥と蝶蝶とぼくと
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 青春を謳歌していた高校生活が終わりを迎える。
 卒業の二文字に思い出が蘇るものの、俺の中にはもやがかかってしまったかのように思い出しづらい記憶があった。何者かに施錠されてしまった扉がそこに存在していて立ち入ることを許されていない、みたいな。
 桜が舞うグラウンドを眺めながら閉じられた記憶に想いを馳せた。
 ──何かきっかけがあれば思い出せるのか。扉の先に足を踏み出せるのか。

「……おい、鴇! 帰りのホームルームとっくに終わってんぞ」

 踏み出せないまま戻ってきてしまった。
 周囲を見渡せば既に半数以上のクラスメイトが下校をしていて、自分だけが取り残されたかのような感覚だった。

「あれ? そうだっけ。……うっわー、俺、寝てたみたい」
「午前授業だってのに寝るかー? ふつう」

 真剣な表情で顔を覗き込まれた上に額にデコピンを食らう。反射的に顔をしかめてはみたものの、想像していたほどの痛みはなかった。
 ただ何処か優しく労るような雰囲気で、再び静かに口を開いたんだ。

「お前さ、夏休み明けからずっとそんなだよな」
「どうしてそう思うんだよ」
「なんかさ心此処に在らず、みたいな感じってーの? ずっと何処か遠くを見て何かを探してるって言うかさ。目には見えない糸を必死に手繰り寄せてる……ように見えるんだよ」

 クラスメイトからの言葉には素直に感嘆の声が漏れた。
 閉じた記憶の中を歩いていた時に自分の中に何か変化があったのだろうか。特別腹を割って仲良くしていたわけじゃない。上辺だけの関係性でも取り壊さないよう、荒波を立てないようにと生活をしていたのだ。高校生活で唯一友人と呼べる彼らに見透かされてしまうぐらいに。
 くすぐったいような、温かいような。今までの俺じゃ考えられないほど距離が近づいていたらしい。
 それでも心の中で引っかかっている存在以上には通じ合っていなくて。

「はー? 気のせいだよ。卒業前に高校生活を思い出してるだけだっての」
「ほんとか?」
「ほんとほんと。六合鴇時は思いの外楽しい三年間を過ごせてましたよーって胸張って言いたいじゃん? 卒業式にさ」
「いやいやまるで心こもってないし。でも、ま、鴇らしいよ。別れを惜しまずにいる感じが」
「そりゃどーも!」

 誤魔化しているわけでもない。ただやっぱりこれは誰かに話したところで解決はしないと思ったんだ。
 だからといって俺一人で解決が出来るとも思ってないけれど、思い出す為に必要な存在が確かにいることだけは不思議と理解していた。
 そんな存在と出会える確証もないのに、友人と別れて廊下へと駆け出した。──今ならば彼らと再び逢えると思ったのだ。



 温かな陽射しが降り注ぐ3月始め。
 時折微かに吹き抜ける穏やかな風に背中を押されて歩き出したものの行き先はない。歩いていたら出逢えそう、ただそれだけだった。
 記憶の端に微かに残る深い緑の香りに心当たりはないのだ。
 目的もなく歩き出してどのくらいの時間が経ったかなんて分からない。辺りは相変わらず見慣れた風景が広がるだけ。楽しげに言葉を交わしながら下校をする学生と、足早に歩き去っていくサラリーマンと一羽の、

「蝶?」

 透き通った様子のそれは宙を舞い、行き交う人の波をふらふらと抜けて路地裏へと入って行く。
 人の住む世界に迷い込んでしまったのか、意図して飛んでいたかどうかなんて俺には分からない。
 ただまるで俺を目視して一瞬立ち止まってくれたようにも見えたんだ。声なき声で「六合さん」と呼ばれた気もしなくはない。蝶が声を発せるはずもないのに聞き慣れた声が耳に届いたような気がした。
 ふわりと舞う蝶が三度風に揺れ、その風は俺の背中さえも押したんだ。動き出した足は止まらない。背中を押す風に導かれるがままに蝶の後を追い続けた。
 気が付けば見慣れない風景が広がっていた。さっきまで視界に入っていた人の姿はない。それどころか人の気配もなく、ただ目前には数え切れないほどの階段が立ち塞がる。頂上の景色は一切見えやしない。無限にも連なる石段と閑散とした木々が立ち並ぶだけ。
 まるで違う街に引きずり込まれてしまったかのようだった。
 幾度か瞬きを繰り返してはみるも変化はみせない。右頬を思い切って抓ると痛みが走り、此処が夢ではないことを教えてくれただけだ。
 他に気付いた事といえば相変わらず視線の先で蝶が舞っていることぐらいだろう。その場でゆったりと旋回をし続け、俺が歩き出すのを待っているようだ。
 普段とは異なる蝶の姿と綺羅びやかな鱗粉に目を奪われ歩き出せずにいた俺だったが、不思議と名を紡いでいた。

「銀朱……さん?」

 全く心当たりのない名前だったが口の動きだけは何故か懐かしさがあって、今までに何度もその名を呼んだ事があるような気がした。
 その人は優しく穏やかな声色で「どうかしましたか? 六合さん」と返答し振り返ってくれていたようにも思う。確証のない記憶だが俺の言葉を聞き入れた蝶が大きく瞬いたようにも見えた。まるで「当たりです」とでも言いたげにくるくると踊るのだ。

「なんだよ、これ……どういうことなんだ?」

 周囲を飛び回る蝶の姿に目を奪われ続けていたが、ふと目を瞑ると俺は記憶の扉の前に佇んでいた。閉じきられていたはずの大きな扉は、まるで息衝いているかのように呼応している。
 きっとこの身が覚えていた動作、口の動きが封じられていた記憶を呼び覚ましてくれているのだろう。

「銀朱さん? 銀朱さん……銀朱さん!」

 はっきりとその名を口にし目を見開いた瞬間、元の世界へと帰って来た。目の前にあるのは大きな扉ではない、何処までも続く石段だ。
 そして宙を待っていたはずの蝶は消え、白色の長い髪を風に揺らし、浮世離れをした人の姿があった。顔には蛇の鱗のような物が目立ち痛々しくすら見えるが、不思議と胸の中が温かい熱に覆われた。初めて見るはずのその姿にも関わらず懐かしさを感じ、もう出会うことがないとさえ想っていた人間との再会なのだろうか。気が付けば頬を濡らし嗚咽をし始めてしまう。

「もう何人も……忘れて欲しくない方々がいますよ」

 涙を拭いたいのに、潤んだ瞳越しでないとその姿形を捉えられないような気がしたのだ。彼らを直視しながらも地面を濡らしては頷く事しか出来ない。

「兄様を泣かせちゃだめー!」
「鴇、お前さー、なんてひでー顔してんだよ。涙でぐっちゃぐちゃだぞ、お前」
「どうした、私に会えてそんなに嬉しかったのか? どれどれこんなのは一度きりだが……丁寧に涙を拭ってやらうじゃないか」
「おうおう、どうしたんだよー。まさか俺の事まで忘れてたんじゃねーのか? いっちばんよくしてやったって言うのによ」
「六合の。俺は彼岸に戻っているのだがこいつらのデータと……と言うか、銀朱のデータと複雑に絡み合っていてね。まさか梵天の体をもう一度見せる事になるとは思ってもいなかったのだけれど……懐かしい面々だろう?」

 夏休み中、日本史の補習の為と大江戸幕末巡回展に行きハイテク技術によって作られた館内を歩いている間の記憶が失われていた。俺の中に残されている記憶は夏休みが終わる数日前に病院のベッドで目を覚ました所しかない。巡回展の中で何かがあったのだろうが、思い出す事も説明をしてくれる人もいなかった。
 だが今、目の前にいてくれている人達を俺は確かに知っている。

「私達は今のままではここから一歩も動く事はできず、六合さん、あなたに触れる事も叶いませんが、無理難題を押し付けようとしています」
「こっちの世界の俺も手を貸すつもりだから到底無理な話、という訳でもないさ」
「おとろしもどきさんが手を貸すだなんて、大きく成長したんですね」
「君ねぇ、まだその名で俺を呼ぶのかい? そろそろ止めてくれないかな」

 偽りではない声。見間違えでもない姿。一人ずつその姿を目に焼き付けていくと、俺の中の記憶の扉がミシミシと音を立てて崩れていく。
 そうだ。忘れてはならない、忘れたくない記憶が雨夜ノ月にはあったんだ。出会いと別れ、そして思いがけない再会と想像を出来るはずもなかった世界の全貌。全てを解決した時に俺は、意識を手放し記憶喪失になってしまったんだ。だから俺が成すべき事までも忘却していた。
 しかしどうしてか彼岸に迷い込んだ一匹の蝶が全てを思い出させてくれたのだ。
 今まで何の目的も無く生きていた筈の自分が唐突に目標を持ち、大学進学を図ったのはこの人達と自分自身、そして金色の小鳥の為だったんだ。

「六合さん、その顔は私達の事を思い出してくれたんですね。そしてあなたが成そうとしていた事さえも」
「ありがとうございます、銀朱さん! 俺やっと思い出す事が出来ました! 今までずっとこの胸の辺りに塞ぎ込まれていた記憶を」
「それは良かった……。私達雨夜ノ月一同はあなたが私達の意識と自我を、今度はこの彼岸で生きれるようにしてくれる事を望んでいるのです。本来であれば雨夜ノ月の崩壊と共に滅ぶ筈だった私達ですが、やはり中には特殊な存在がいましてね……あなたが彼岸に戻ってからもなおこちらの蝶は六合さんと共に在りました。理由は分からず、説明も出来ませんけど」

 今まで姿を現さずに舞っていた蝶は俺が気付かないだけで傍に居てくれたのだろうか。記憶を思い出すべき瞬間が訪れるまで。

「すみません、私一人が長々と話してしまって。しかし私達があなたの前にこうして現界出来る時間はじきに終わりを迎えてしまう事でしょう。あなたを此処まで導いてくれたその蝶は以前とは異なり、私の感情、記憶だけではなく、私達全員の記憶を抱いてくれているはずです。もしもこの先悩んでしまったら蝶を呼びかけてみてくださいね。きっと応えてくれるはずですから」
「皆、俺絶対に皆の姿をきちんと取り戻すから! だから今はまだ……待ってて」

 何度も涙を拭った俺は顔を上げて皆の顔をしっかりと見つめた。もう二度と忘れて成るものか。必ず皆を取り戻すと心に決めた意志の強さを伝える為に、一人一人と視線を合わせる。

「こっちの世界の私はずっと賢いから、きっと力になれるよ」
「お前はいつもビービー弱音を吐かずに来たんだ。これからも垂れずにアイツの事……頼んだからな」
「またお前と会える日を楽しみにしているからな。私の事を忘れるなよ」
「鴇、俺はよぉ最初からお前はやれば出来る奴だって思ってたんでぃ! 何事にも負けんじゃねーぜぃ!」
「思い出したのなら、たまには顔を見せに来い。六合がいないんじゃ纏まりが悪くてね」

 一言を告げる度に姿を消していき蝶が大きな弧を描いていく。

「それでは六合さん。私達の事をもう二度と忘れないで下さいね。またお会い出来るその時を楽しみに待っていますから」

 銀朱さんが笑みを浮かべ手を振ると同時に突然の強風に煽られ、俺は力強く目を瞑ってしまった。
 すると先程まで感じていたはずの人の感覚が瞬間的に消え去り、恐る恐る目を開くと誰一人として姿がない。それどころか頂上の見えない石段の姿も無くなり喧騒に覆われ始めた。周囲を見渡せば隙間無く並ぶビル群の間に置かれた自動販売機の前に立ちつくしているだけだった。
 目を凝らすと自動販売機とビルの小さな隙間から一匹の蝶が飛び出してきた。更に足元には金色の羽が一枚落ちていて、彼は何処となく嬉しがっているのか大きく旋回し、俺の周囲を飛び回る。

「ありがとう、皆。俺絶対に頑張るから」

 蝶へと微笑み羽を拾い上げた。そして再会を誓うように腕を伸ばし人差し指を差し出すと、蝶はゆっくりと俺の指に止まったのだった。

(終わり)


→あとがき


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