かにもかくにも撮るぜベイベ
□古本屋さんでコソコソ話
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「あ」
「おや」
耳心地のいいジャズが流れる店内で、びっしりと本が並べられた棚の間を歩いていたら、見慣れた和装の彼がいた。
上は黒いスタンドカラーのシャツに白い着物。更に、本紫色を差し色にした黒いマントを羽織っている。
下は淡黄色の飾り紐がついた黒い袴と編み上げブーツ。
頭のてっぺんから爪先まで、昔の書生もかくやという格好の彼が、柔らかな照明の下で、少し色あせた表紙の本を手に取っている。
その姿を見た私は、自分が明治か大正の世界に迷い込んでしまったのかと一瞬錯覚してしまった。
「こんにちは、棗。お買い物ですか?」
「あ、買い物というか、ふらっと入ったというか。ここの古本屋さん、よく立ち寄るんですよね」
「実は小生もなんです。休日はよく古本屋巡りをしておりまして、この店にも再々足を運んでいるのですよ」
「そうなんですかー」
幻太郎さんって、古書店とか図書館とか、本が多い場所がよく似合うなぁ。作家さんだから尚更そう感じるのかもしれない。
「本屋さんにいると、かなり時間が経ってることって無いですか?」
「ありますね。やつがれは書店で丸1日過ごしたことがありますよ。本を読んでいると、周りの喧騒どころか自分の空腹すら忘れてしまうんです。懐かしいですねぇ。作家を目指していた頃はなかなか受賞できず、お金が無くて缶詰すら買えずじまいで、本を読んで飢えをしのいだものですよ」
「そ、そんなひもじい下積み時代があったんですか……?」
「はい……。嘘ですけどね」
「くっ……。また涼しい顔で息をするように嘘をつくんですから、この人ったら」
「ハハッ。これが小生の持ち味ですから」
「でも、いいですよね。本屋さんで過ごすの。特に古本屋さん。子どもの頃読んでた懐かしい絵本とか、書店で見つからなくて諦めてた本とかと出会えますから」
「そうですね。それに、ここにある本は、誰かのもとを転々として、誰かに読まれてきた本です。小生が持っているこの1冊にも、ドラマがあるかもしれない。そう考えると心が踊ります」
「その感性、好きです」
「それは僥倖」
すました顔で本を棚に戻す幻太郎さんを見ながら、口元を緩める。
こんな感じの本談義、多分きっと幻太郎さんとしか出来なさそうだなぁ。もし乱数さんか帝統が相手だったら、ファッションとかギャンブルとか、他の話の方が弾みそうだし。
「ねぇ、ちょっとおかしなこと言ってもいい?」
「そういうの大好きです」
「印刷したての紙のような匂いがするらしい香水があることをご存知ですか?」
「そんなのあるんですか……!?え、いつもの嘘ですか?」
「嘘だと思うならググってみてください。名前は『Paper Passion』。本をくり抜いた、意匠を凝らしたデザインのケースに入っているんです。正しくは、"本を読む際によりリラックスできるような香り"がイメージのようですよ」
「ペーパーパッション……。あ、ほんとだ。シャネルのデザイナーの人とかが制作に関わってるんですね」
試しにスマホで調べてみると、四角いシンプルな小瓶の香水が出てきた。本の中に収まっているのが、ユニークで面白い。
「本の匂いと言えば、小学生の時、よく紙の匂いをかいでたなぁ。意外と1冊1冊の匂いが違うんですよ。それを見つけるのが好きでしたね」
「さては貴女、印刷物ソムリエですか?」
「あはは、そこまで極めてないですね」
人がせかせか歩いていく外にいる時よりも、ゆったりとした穏やかな時間が流れていく空間で、私たちは好みの本を探しながら、のんびり言葉を交わした。
END