第四弾
□貴方は何色にも染まらない
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※純黒ネタバレあり
夏特有の生暖かい湿気を帯びた夜風が心地悪く、赤井は身じろぎをした。彼の視界には屋上からの夜景と、それを背に立っている女の姿が写っている。
「キュラソーが消えたそうね」
女__愛弓は眉を下げ、さも残念だと言わんばかりの声色でその名を口にした。
そんなこと、微塵も思っては居ないだろうが。
「さすがに、情報が早いな」
情報屋を生業としているだけあって、昨日のテーマパークでの事件を、愛弓はすでに把握している。
「今夜はどういったご用件? 商売のお話し? ……それとも、私を捕まえに?」
「大人しく捕まる気はないだろう?」
「愚問ね、当たり前でしょう。 それに、彼らの情報も売らないわよ。 大事なお得意様だもの。 同じように、貴方たちのことも売っていないんだから」
愛弓はお得意先の情報は売らない。だから、他の情報を買うことはあっても、黒の組織についての情報を彼女の口から聞けたことは今まで一度もなかった。
「キュラソーの件を知っているなら分かるだろう。 ……奴らの動きはこれまでよりも大規模なものだった、こちらも一歩抜きん出る必要がある」
「だからって、貴方たちに着くつもりはないわよ?」
空気が湿っている。その重たさを、風が押し流してくれることはない。
赤井が愛弓を捕らえようとしたことは、これまでにもあった。だが、その度にひらりとそれを交わし続けてきた彼女の実力は相当なものだ。
ふと、目の前の愛弓を見つめる。
何がおかしいのか、薄く弧を描いている唇。
月光に照らされた透き通る肌。
彼女を構成するすべてが、触れれば消えてしまいそうな不確かさを帯び、この息の詰まる蒸し暑さをも、彼女は感じていないかのようだった。
「……Red」
「ん?」
発せられた言葉を聞き逃さないように耳をすます。
「Orange、Green、Blue、White」
流れるような発音で呟かれた言葉は、昨日耳にした単語だ。
「ねぇ、彼女は結局何色になったの?」
「なに?」
「キュラソーの最後よ。 貴方は特等席で見届けたはずよ。 5色のどれか? それとも黒? ……はたまたそれ以外?」
愛弓は一歩、また一歩と赤井に近づく。
赤井は彼女の瞳を見つめたまま、口を開かない。愛弓が何を言いたいのか、その心を推し量っていた。
ただ、その言葉がいつもの気まぐれだとすれば、いくら考えてもその真意など推し量れるはずもないのだが。
「銀髪の彼はきっと黒ね? あの人は純黒がよく似合うわ。 貴方は、そうねぇ……赤、かしら? 彼らへの情熱は、静かに燃える炎のようね。 それとも、正義を振りかざす純白がお好き?」
赤井の目の前まで来ると、愛弓は唇が触れるまで後10cmという距離でぴたりと止まり、挑発するように微笑んだ。
その瞳には、なんの感情も写っていない。
「よく回る口だな」
「あら、ならその口で塞いでみたら?」
一瞬の沈黙の後、どちらともなく、唇が触れる。
愛弓の細い腕が、赤井の首に回る。
べたつく肌が、夏の匂いが、妙な喪失感を感じさせる。
「……何色なんだ?」
「なに?」
なんとなく、赤井は気がつけば口に出していた。
「お前は何色なんだ」
「……俺色に染めてやる、くらい言えないの?」
「染まらないだろ」
「そうね、男女の逢瀬にこんな物騒なもの持ち込む人には染められないでしょうね」
彼女の腹には、赤井の左手に握られた銃口が、ぴたりと当てられていた。
そんな状況でも、愛弓の瞳に焦りの色は浮かばない。
それどころか、気がつけば、赤井の首筋には冷たいナイフが当てられていた。
「ねぇ、このままだと、3秒後には私のお腹に風穴が空いて、貴方の首が胴と離れちゃうわ。 これって得策じゃないと思うの」
冗談っぽくクスクスと笑う彼女の瞳は、全くと言っていいほど笑っていない。ぞっとするような冷たさが、その奥に見え隠れしている。
その瞳に赤井が捕らわれた一瞬のうちに、愛弓はパッと距離をとる。
「今度呼ぶときは、お金になるお話を持ってきてね?」
そう言って、愛弓はひらりと屋上から飛び降りた。
唐突に訪れた静けさと、思考が停止しそうな蒸し暑さに、まるで、彼女など最初からいなかったかのような錯覚に陥る。
「……何色、か」
黒にも赤にも染まらない瞳は、何も写さない、透き通るような透明さだった。