灰色の桜

□第二章
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目が覚めたら兼重がいなかった。


厠にでも行ってるのかと思い、平助は身体を起こす。


ごしごしと目をこすりながら井戸に向かう。


まだ眠気の覚めない平助は顔を洗った。


昨日殴られた箇所の傷がまだ残っていて、冷たい水がピリッと滲みた。


殴られた所の腫れは昨日ほどでないにせよ、まだ見た目で分かるくらいに赤く腫れていた。


昨日のことを思い出すと、平助は不安と恐怖が入り交じったような気持ちになる。


あの時の兼重は何だったのか。


平助は兼重が心配になり、勝手場に向かった。


しかしそこに居たのは兼重ではなく、隣のおばさんだった。



「あら平ちゃん、おはよう」


「おばさん、おはよ」



膳の上には兼重の作るものとあまり変わらない朝飯が並んでいた。


平助はキョロキョロを辺りを見回す。


兼重が居ないことに違和感を覚えた。



「ねえ、兼重は?」



平助はおばさんに尋ねる。


いくら厠に行ってたとしても、あまりに遅いのではないかと思った。


しかし、おばさんの返事は曖昧だった。



「さあ…あの子、あたしが来た時にはもう居なくてねえ…今日、どこか行くって言ってたかい?」


「…え?いや…」



何かがおかしい。


兼重は平助に黙って何処かに行くような人ではなかったことは、平助が一番よく知っている。


何より兼重が家に来た頃、二人は約束を交わしていた。



『勝手にオレの前から居なくならないこと』



あの時の約束は今でもよく覚えている。


もう四年も前になるが、兼重はあれから一度として平助に黙って姿を眩ませたことはなかった。


平助は焦った。


そういえば昨日、兼重は思い詰めたような顔をしていた。


それにあの時、兼重は意味深な言葉を自分に告げていた。


『強くなって、平助を守るから』と。


そう言われた時、平助は自分を頼らなくなっていく兼重を想像して不安になっただけだが、もしかすると──。


平助の心臓は、不安で早まった。


思わず家を飛び出した。


後ろからおばさんが呼ぶ声が聞こえたが、平助は構わず走る。


昨日の路地裏まで来ると、平助は速度を落とし止まった。



(…居ない)



荒い呼吸を繰り返しながら、特に代わり映えしていない路地を後にした。


平助はそのまま、町を出た。


強くなりたい。


そう願っていた兼重は、自分の通う道場に向かったと思った。


昨日兼重は一人で道場まで来たため、道に迷ったりすることはないだろう。


兼重は物覚えは早い方だったから。


半刻ほど掛けて道場に辿り着く。


時間が早かったが、道場には住み込みの門弟も居たために門は開いていた。


元々平助は今日、稽古をする予定は入っていなかったので、平助の姿を見た兄弟子が驚いたようすで近寄ってきた。



「平助?どうしたんだそんなに息を切らして」


「兼重…っ、兼重来てないですか…」



途切れ途切れに平助は核心だけ告げる。


平助はいつも兼重の話をしていたし、昨日顔を合わせたばかりだったので兄弟子はすぐ兼重が誰なのか分かった。


しかし、兼重はここには来ていないと答えた。


平助は微かな期待を裏切られ、落胆したように道場を出た。


走る元気もなかった平助は、とぼとぼと帰り道を歩く。


やっと家まで戻ってくると、おばさんが心配そうに出迎えた。


そういえばまだ朝飯を食べていなかった。



「どう?兼重ちゃん見つかった?」


「……いない」



平助は小さな声で答えた。


なんで昨日の内にもっと話を聞いてやらなかったんだろう。


兼重は何か悩んでいた。


分かっていながら、自分を必要としなくなるかもしれないという恐怖に何も声を掛けられなかった。


もしかしたら、本当に自分を必要としなくなって出ていったのかも。


平助は胸が押し潰されそうになる。


元気のない平助をおばさんはそっと慰める。



「大丈夫よ、兼重ちゃんきっとすぐ戻ってくるから」


「……………うん」


「平ちゃんはいつも考えすぎなのよ。兼重ちゃん、ちょっと遊びに出てるだけだわ」



平助はおばさんの言うとおり、早とちりですぐ思い込むようなことがあった。


一度冷静になって兼重を待ってみようと思った。


夕方にでもなれば、ひょっこり扉を開けて帰ってくるだろう。


平助は不安だったが、今は兼重を信じることしかできなかった。
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