ツキウタ。

□drop
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葵の涙を目にするとき、それはいつだって何かを噛み殺したような表情だった。
つかみかかって怒ったときもどこかそれは自分自身を責めているかのような口調で、滲んだかなしみと悔しさのような感情が見え隠れした。

確かあれは、中学でクラスが離れていた時期のことだったと思う。
その日少しだけ、いつもの笑顔に翳りがあるような気がしていた。
「葵、お前何か隠してることないか?」
そう尋ねたって答えてくれることはないとわかっていても、それでも葵の声で教えてほしいと、それだけで。
「…ごめん」
「謝れとは一言も言ってない」
俺が眉を顰めると、葵はまた今にも泣きそうに笑う。
「俺に、言えないようなことなのか?」
ただ謝罪の言葉を繰り返す葵に背を向けて歩く。
「…もういい」
突き刺した言葉がどう響いたのか、そのとき葵が浮かべていた表情がどんなだったかなんて、自分への苛立ちで埋め尽くされていた俺は気にしようともしなかった。

その日は授業も休み時間も全く視界にすら入らずに、そんなこと関係ないとでも言わんばかりに広がる空をずっと見つめていた。
いつも集中などしていないが、今日は珍しく一睡もしなかったと教師陣に誉められたことだ。
HRが無事終わり、クラスメートは部活やら下校やらに向かっている。
その中でわかっているのに葵が来ることを期待していた俺は、何気なく葵の教室に寄った。
「葵、居る?」
「え、あああ卯月君!」
何やら動揺した様子の女子は、鞄に詰め込まれていた教科書やノートを落とす。
拾って渡すと、ぺこぺこと頭を何度も下げて礼を言われた。
「…で、葵は?」
「皐月くんなら、さっき資料室に向かってたの見ました」
どうしてこの葵と同じクラスの女子は敬語なのかなどそんなことはもう頭になかった。
俺は、迷わず資料室に足を運んだ。

向かったはいいが、実際にどう話せばいいのかなんて何一つ考えていなかった。
大事なことや他人に迷惑をかけると判断したときに頑固になる性格は何とかならないだろうかとは常々思っていたのだが、こういう場合は本当に厄介事になるだろうというのは容易に想像できてしまう。
どう言おうか、どうすれば話してくれるかなどとぐちゃぐちゃ考えながら扉に手をかけた。
―瞬間。
「いや…だ、ほん、と…っに」
それは間違いなく、幼なじみの声だった。
「たす、けて…っ」
そう無意識に発しただろう言葉に、思考は真っ白になった。
そのまま力を込めて扉を開けると、服とネクタイが乱れた葵とその葵を組み敷いた姿勢の男子生徒が同時に突然現れた侵入者に視線を移す。
「あ、らた…?」
「う、卯月!?何で、」
「…離せ」
「あ!?」
「その汚い手で葵に触るなって言ったんだ」
言いながら、力ずくで引き剥がす。
「邪魔すんじゃねえよクソが!!」
文句を言い続けるそいつを通り抜け、何を考える暇もなく葵を自分の腕の中に引き寄せる。
あたたかくて優しい温度に酷く不安げに揺らいでいた心は安堵した。
「ごめ、ほんと…に、ごめん、あら、た」
震える声で懸命に伝えようとする葵がいつもと違って幼い子供のように頼りなかった。
ああ、こんなにも愛おしい。
そのとき、激情したさっきの男が何かを蹴ったような、或いは強く押したような音がした。
途端、その鉄筋のようなものは葵に降りかかる。
「葵…っ!」
いち早く気付いた俺は思い切り葵を遠ざけたが、頭部に衝撃があった後、意識を手放した。
暗く薄れていく思考の中で最後に見たものは、俺の名前を何度も呼び続ける大切な幼なじみの涙だった。
前に見たのはもう随分昔のような気がした。
一体いつから見ていなかった?
いつから気づかないふりをしてきた?
いつから、俺は。

ふと目を覚ますと、ずっと手を繋いでいたらしい葵が俺に詰め寄る。
「っ新!」
「あお…い?」
「新のバカ!なんで庇ったりなんかしたの。もう、二度と目、覚まさないかと思ったんだよ…?」
空をそのまま切り取ったみたいに透き通った綺麗な瞳から一筋涙が頬を伝う。
意識がなくなる直前にも見たその涙は、光が反射してきらきらと輝いて見えた。
葵は自分が襲われたときには決して泣かなかったのに。
今こんなに感情をさらけ出してくれる理由がわからなかった。
「ごめん。葵を悲しませるつもりはなかった」
「新は、優しいよね」
俯いたままそう呟く葵に気になっていたことを告げる。
「…お前、最近あの男にストーカー行為されてたんだろ?」
その空色の目が見開かれる。
「…ずっと言えなくて、ごめん。怖くなったんだ。新が傷付けられるのだけは、耐えられないから」
唇を噛み締めてそう紡いでいく葵に、こんな姿を俺以外の前で見せないでほしいだなんて子供みたいなことを考えた。
「やっぱり新に隠し事はできないね」
「じゃあこれからはちゃんと隠さないで全部を打ち明けるって、約束できるか?」
「…うん。約束する」
「よし」
自分にも葵にも誓うように声にした言葉と、指先をそっと絡めた。
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