ツキウタ。

□透明呼吸法
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「夜?あ、やっぱり」
すぐに日が落ちるようになり、そろそろ本格的にセンター試験も近いなあだなんて当たり障りないことを考えていたとき、耳馴染みのある柔らかい声が撫でる。
「葵」
相変わらず何だかきらきらとした雰囲気を纏っている姿を見て、その声が誰なのか理解した。
「新は?」
何となく一番最初に頭に浮かんだ疑問を投げかける。
「委員会で残らなきゃいけないから、先に帰ってろって」
その言葉に数度瞬きを繰り返した。
「新ってそういうの積極的にやりたがるタイプじゃないと思ってた」
「いやほとんど強制的な感じで決まっちゃってさ、最初は新もすごい嫌そうだったし、俺に対してもめんどくさいだのなんだの言ってたし」
「まあ…強制じゃそうなるよね」
比較的同情の余地がある話に小さく溜め息を吐くと、まるで待ってましたとでも言わんばかりに葵がにやりと笑う。
「でもそれがね、最近は楽しそうなんだよ。…よかった、って思った」
「その言い方…葵、親みたい」
「え、嘘!?」
「ほんとほんと」
その台詞に年相応に反応してくれたことが少し嬉しくて笑みを零す。
「うわあ嫌だなあ…気を付けなきゃ」
そう言いながら頬を軽く叩いている葵の指先が赤くなっていることに気付く。
「葵、ちょっとそこで待ってて」
「?うん」
特に急ぐ必要もないが、走って辿り着いた自販機であたたかいお茶を二本購入してまた小走りで先程の場所に戻る。
「はい」
それを一本渡し、申し訳ないと繰り返して受け取ろうとしない葵に無理矢理押し付け足早に歩き始めた。
「ありがとう、夜」
「どういたしまして」
葵がかじかんだ手のひらを手に持っているお茶であたためながら、眩しそうに目を細める。
「…何か、あった?」
さり気なく呟いた言葉に酷く動揺する様子もなくいつも通り笑う。
「そう見えた?」
きっと最初からこういう性分なのだろう、甘えるのもぐちゃぐちゃでない交ぜになった感情を誰かにさらけ出すのも下手くそで、覆い隠したり嘘を吐いて欲望を潰していくことばっかり上手くなっていって。
王子様だなんていうからかい文句はそもそも新が言い出したことなのだろうか。
だとしたら、どこまで残酷なんだ。
「葵は…もう、初めて会ったきから傷だらけでボロボロだったよ」
こんなのは嘘だ。
初めて葵と会ったときの感想なんて異常にきらきらしてて爽やかだなってくらいのものだ。
だって、あまりにも何でもないんだって言うみたいに微笑むから。
「何、言ってるの…夜」
ああ、今だ。
今ならその隙間に入り込める。
「…ねえ、葵」
空をそのまま閉じ込めたみたいな透き通った瞳の奥で、何かが揺れたのが確かにわかった。


「葵は、誰を追い続けてきたの」


誰一人として人が通らない、この取り残された場所に異質な声はいやに響く。
「…うん、そうだよ」
全く質問の答えになっていない言葉を並べ、また微笑んだ。
泣かないのか、と思う。
理不尽な現実を呪ってしまえばいいのに、それすらしない。
どうして泣きそうに震えている声はそれを形にしないのか。
そうすれば楽になると分かっていながらしない理由は、俺にはわからなかった。
「あはは、誰にもバレてないって自信、あったんだけどなあ…」
夕焼け空のオレンジ色に引き付けられるように、階段の先を見る。
彼が焦がれている色とお揃いのその色は、哀しみを灯した瞳によく映えていた。
何かを言うべきなのかもしれない。
陽だったら、あの誰でも光に連れ出す幼なじみだったなら、葵にとって一番望んでる綺麗な言葉を返せるのかもしれないけれど。
それくらいの優しさを、あげられるのかもしれないけれど。
ただ黙っていることしかできない俺は、本当に弱い。
「夜、」
「…ごめん、葵」
「何で夜が謝るの」
それは喧嘩したときによく幼なじみに告げられる台詞だった。
「癖、かな」
「夜っぽい癖」
力なく笑う表情は、それでも崩れることはない。
「ねえ…葵」
「何?」
「今まで…言いたくなったこととかなかったの?」
愚問だとはわかり切っていてもそれくらいのことしかもう言う術がなかった。
「…ないよ。これからも、言うつもりない」
「…」
「俺は、強くはなれないから」
間違ってる、それはわかってると。
その声は風に掻き消されて、空気に染み込んだ。
好きという気持ちとか、相手を想うという感覚はもっと甘くて愛おしくなるようなものなのだと思っていて。
だから、こんな風に苦しいと訴えて軋むような感情だなんて考えたことすらなかった。
自分相手ではなかったにしろ初めてきいた愛の告白は、今まで自分が生きてきて想像し続けていたものとは随分懸け離れていたんだ、と今更ながら思い知る。
そう、ぐるぐると渦巻く気持ちの取り繕い方なんてものをこの少年はもうずっと前からきっと知っていたのだ。
「葵は…強いよ。弱くなんて、ない」
「夜は優しいよね」
何で何で。
何で、そんなに。
俺は…何にも、してないのに。
だってもし気付かなかったら?
たった一人でいつまでも抱え続けて、いつかはその手で消していく。
「ううん。もしかしたらいつか感づかれるような行動しちゃうかもしれなかったから…ほんとにありがと、夜」
心を、見透かされているみたいだ。
夕闇の光を受けて笑った葵はあまりに儚く、そして簡単に伝え切れないほどに綺麗だった。


結局あの後いつも通りに接する葵に俺ができることは何もなかったみたいに返すことだった。
時折隙間から見せた暗く閉じた表情すら境界線の向こうへ遠ざかる。
近付けたような錯覚も薄れ、気付けばつい数時間前の出来事は夢の中に溶けてしまいそうで。
何となく怖くなって訪れてしまった部屋の前でどうするか散々迷い、やっと覚悟を決める。
「葵、居る?」
ドアを弱々しくノックして、その鍵が空いていることに気付いた。
葵が開けっ放しにしたままなんて珍しいと思い、申し訳ないと思いながらも少し覗き込む。
思わず笑みが零れる。
あのみんなの王子様だと言われる存在が、机に突っ伏して規則正しい寝息をたてていたのだ。
「…ん、」
「邪魔してごめんね。おやすみ」
なるべく静かに部屋に入っていき、上着を被せてそのまま戻ろうとした。
――瞬間。

「…あら、た」
新。
だってそれは。
その名前は。
「あらた…っ」
その名前、だけは。
あのとき決して見せなかったその感情の矛先を。決して口にはしなかった壊れそうなほど微かに望んだ温度を。
見て見ぬ振りをしてきたその全てが、溢れてしまう。
「葵…!!」
空虚な場所に零れ落ちた雫がただ滲んで、何色にも染まらず使い古された紙を濡らしていく。
冷え切って震えていた手を思い切り引っ張り上げると、何かに怯えたような瞳が映り込んだ。
「…あ…夜…?」
一回り大人びた印象が、今は幼い子供のように思える。
その体を抱き寄せると、自分の体温が望まれてるものではないんだと痛いくらいにわかった。
「…よ、る。離して、お願い」
「…ごめん」
「なん、っで…だって、このままじゃ…っ」
「うん。大丈夫だから…きかせてよ、全部」
「っ…でも、」
「葵」
掴んだ手がびくりと反応したのが伝わる。
「なんにも、間違ってることなんてないから」
見開かれる瞳は、どこまでも青く青く透き通っていた。
「外…出よっか」
微笑んだ顔は、上手くできてればいいなとだけ考えた。


「…さっきはごめん、動揺して」
解かれた手は、まだ熱を持っていた。
「間違ってない、って言ってくれたのすごい嬉しかった…ありがとう」
その頬を伝ったものは、今まで堪えてきた感情を切り取ったみたいに透明な色をしていた。
――誰かを想う。
その気持ちがくだらない区切りで可笑しいと嘲笑される感情になってしまうのはどうしてなんだろう。
こんなにも、強く願っているというのに。
「触られるの、…嫌じゃない?」
冬の風で冷たくなっている耳をかじかんだ手で塞いだ。
「?」
最低だってことくらいわかってる。
わかってる癖にその手を引く俺の方が、余程ずるい。
「…好きだよ」
濡れて掠れた声は、空気を震わせる。
その空色の瞳に、下手くそな笑顔に。
どうしようもないくらい独り善がりな恋をした。
どうか、きこえないで。
届かないで。

「…夜」
ほんの一瞬垣間見えた弱さに、行き場のない気持ちは痛い程その場所を求める。
夕焼け色に焦がれて笑う瞳が好きだったはずなのに。
「新を、好きでいいから。…側に居させて」
違う、違う。
こんなことが、言いたかった訳じゃない。
「…葵だから、好きなんだよ」
また、不器用な笑顔を形作る。
「…ごめん。俺には、できない」
心の奥が軋むような音が響く。
「ごめん、ごめんね。わかんないんだ。どうすれば…綺麗な生き方が、できるのかな。誰も傷つけないで済むのかな。…っもう、全部全部」
綺麗じゃ、なくていい。
間違いだらけでも、なんだって構わない。
それなのに、この手から君はいとも簡単にすり抜けていく。
「もう、いいよ」
「夜…?」
「抑えなくていいよ。教えて」
痛いくらいに、切ないくらいに愛おしい。
「…葵、」
凍り付いた唇を重ねる。
「…んぅ、っよ…る、」
温度が通った瞬間、透明な雫がその頬を一筋伝った。

「すきだよ。…あら、っ…た、新が、すき。ほんとは、失うのが、離れてくのが怖くて。ずっとずっと、自分自身から逃げ続けた。間違ってるから、新を好きになるのはおかしいことだって…っわかってるから、って…、言い訳ばっかりで」
一つ一つ丁寧に紡がれた言葉は今まで背負ってきた世間の視線や、押し殺してた感情。
何も言わずに頷くと、葵はそっと口元を緩める。
「あのとき…夜がきいてくれたから、認められた。…ありがとう」
ありがとうという言葉よりも、そう言って心から笑ってくれたことの方が嬉しかった。
「もう一回、キスしてもいい?」
「え、えぇ!?なんで、そんな、」
「はは。ごめん、冗談。葵が可愛かったから」
「か、可愛いって…っ」

「――いつか、俺を見てくれるようにってこと」
「っ夜、」
「よしっ!帰ろっか。…手は、繋いでもいい?」
「…うん」
はにかむように微笑んだ顔は、優しい光に包まれた。
 

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