龍如短編

□小話B
1ページ/1ページ


「ねえ、キスしてよ」

静寂な事務所に突如響いたのは、突拍子もない言葉だった。

「は?」

当然、一緒にいた彼女は素っ頓狂な声を上げる。

今は、唯一の従業員である花ちゃんはいない。
買い出しに行っていると目の前の突拍子もない言葉を発した男、秋山は言っていた。

「ねえ、キス」
「秋山さん、寝言は寝てから言うものですよ?」

向かいで本を読んでいた彼女は、視線を本から秋山に向ける。
それから至極、呆れた顔と声で言い放った。

「そうだねえ。
でも俺は寝てないからこれは寝言じゃないよ? 本気」
「ちょ・・・!」

グイッ、と。
本を読んでいた腕を突如、引っ張られた。

バランスを崩し、テーブルに手をついてバランスを保つ。
すると、目の前には無精髭と整った顔。

「・・・!」

唇に感じた、熱。
かあ、と頬が熱くなるのを感じた。

「ね、キスして?」

へらっと、目の前の男は力が抜けるような笑みをこちらに向けた。

「い、今したじゃないですか・・・!」
「だーかーらー、俺は『したい』んじゃなくて『してほしい』の」
「わ!」

より強い力で引っ張られ、倒れると思ったので目を強くつぶる。
だが来たのは衝撃ではなく、ストンという着地した感覚と、ぬくもり。

「大丈夫だって、俺が君を傷つけるとでも?」
「秋山さん・・・」

どうやったかは、残念ながら目をつぶってしまったため分からないが。
いつの間にか彼の膝の上に座らされていた事に、彼女は微妙な顔をした。

彼の細いがゴツゴツとした手が、頭部に回る。
それから瞳を閉じて、唇を軽く突き出した。

「なんですか急に・・・」
「んー、なんでしょうねえ?」

瞳を閉じながら言葉を濁し、けれど軽い声で返してきた。

楽しんでいるような、からかっているような。
彼女には今の秋山の声が、そのように感じられた。

がっしりと頭部と腰に固定された手は、きっとこちらがキスをするまで解放する気はないだろうと悟る。
すると同時に、タンタンと階段をあがってくる音が徐々に聞こえてきた。

買出しに行っていた花ちゃんが、帰ってきたのだ。

「あ、秋山さ・・・!」
「ん? どうしたの?」
「花ちゃんが帰ってきましたっ!」
「うん、だから?」

この男、なんと言った。
まるでそんな事は関係ないと言わんばかりに、飄々と言ってのけてくれた。

「花ちゃんに見られたくないなら、・・・ね?」

もう三回も言ったし、これ以上は分かるでしょう?

秋山はそう付け足して、意地悪く笑うのだ。

やや暗い事務所の中と、外から入り込む微妙な光が秋山の顔に当たる。
ワインレッドの上着が相まって、ダークレッドに今は見える。

そのせいあってか、今の彼はまるで。

(・・・っ、魔王みたいじゃない!)

嗚呼、しかし。
迷っている暇などない、階段をあがる音はすぐそこまで。

彼女は羞恥を押し殺し、半ば自棄になったような勢いで自分のそれを秋山の唇に押し当てた。

願いを叶えれば、すぐに解放してくれる。
しかし秋山という魔王は、それをさせてくれなかった。

逆に、束縛が強くなる。

そこでふと、読んでいた本のタイトルを思い出した。
確か本のタイトルは、『たったひとつの魔王様』。

もしや彼は、それを見て。
そう理解したのと同時に、無機質なドアノブの音が耳に入ってきたのだった。



[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ