私はとても婆ちゃん子です。婆ちゃんは初孫の私をいちばん可愛がりました。二歳半まで江波で婆ちゃんと両親と暮らし、その後、弟ができたため引っ越しました。ものごころついたときから、週末には弟の手を引いて婆ちゃんのところへ泊まりにゆきました。婆ちゃんは人生の中で今がいちばん境涯だとよく言いました。一緒に暮らしていた頃の二歳半までの思い出話を何百回もみんなに話すのでした。専ら内容は私の話。何千回も、何万回も聞いて、ストーリーもセリフも全部同じで、でも私が何歳になっても何も変わらず話し続けるのでした。その時の婆ちゃんの幸せそうな顔はいつもこの上なかった。佳壽子は最高の孫でした。少なくとも婆ちゃんにとっては―。成人を迎えた私は、仕事やプライベートでだんだん婆ちゃんに会いにゆかなくなりました。一人暮らしの婆ちゃんはいつも淋しそうでした。寂し過ぎて時々電話をかけてきては、遊びに来て欲しいと言いました。婆ちゃんを大切な気持ちは変わらずにいたはずですが―。婆ちゃんはいつも私が来るのを心待ちにしておりました。少しずつ物忘れもひどくなり、耳も遠くなりました。私が江波に行かなくなってからは婆ちゃんがちょ
くちょく廿日市に来ました。そのうち、一人暮らしも心配だということで、私が江波に引越し一緒に暮らし始めました。若くて遊びたいばかりの自分は、友達と遊んでばかりの毎日でろくにまっすぐ帰ることもありませんでした。それでも焦げ焦げの夜御飯を私に作ってくれていました。婆ちゃんが寝た頃に帰り、電気をつけたらその御飯の上に萱をかけてくれて冷め切っていました。それでも婆ちゃんは、佳壽子が帰ってくるという気持ちがあるだけで淋しさも全然違うと。自分の行動を省みることもなく二年近く一緒に暮らしました。しかし、ある日、市営住宅の都合上、私は江波に住めなくなり私は江波を出ることになりました。結局、どのくらいの時間を一緒に過ごしてあげられたか…。一緒に暮らしていたと言えども、独りにしていたことが多かった。私の引越しの準備が始まった。婆ちゃんは日課のお経をあげながら、これからまた独りぼっちだと涙をこぼしていた。私はいつでも江波にゆけるようにと吉島に住むことになり、知人から炊飯器をもらった。その炊飯器を見て、婆ちゃんはひとりまた涙をこぼしていた。いつも独りぼっちにしていた私だったのに、それでも限界までわたしの帰りを待って、待ち疲れて、メモに、先に寝ます、と書いて眠っていた。それでもわたしが引っ越してゆくまでの毎日、お経をあげながら独り涙をこぼしていた。私が江波を出る最後の日、まっすぐ帰り一緒に夜御飯を食べた。婆ちゃんはオムレツを作ってくれたかったのだろう、焦げ焦げの玉子焼きが半月の形にパタンと折りたたんであるだけのオムレツを食べながら涙が止まらなくなった。寝るまでずっと一緒に居た。本当はいつもこうしてあげるべきだった。それでも私の赤ん坊の頃に破ったふすまや、わたしの書いた落書きや、いたずらで貼ったシール、そして何億回も聞いた小さい頃の話を幸せそうに話した。江波のお家全てが私の幼少時代の思い出に埋め尽くされていた。
吉島での一人暮らしが始まった。時間があったら時々江波へ行った。日に日に婆ちゃんが小さくなってゆく。私の仕事が忙しくなり時間がなくなっていった。でも、きっと忙しさにかまけていただけ。それでも休みの日には、婆ちゃんの大好きなお寿司を買って持って行った。嬉しそうに食べていた。日に日に、会うたびに小さくなっていった。仕事の帰りにゆくと連絡すると、嬉しそうにずっと待っていた。誕生日に会いにゆくと、誰かが祝ってくれるとは思い掛けぬ、ととても喜んだ。台所にはひとりで自分の誕生日を祝うつもりだったのか、スーパーど買った助六寿司が買ってあった。
月日は流れていった。会うたびにまた小さくなる。それでも私の帰りには、私の姿が見えなくなるまで手を振り、見守り続ける。私も何度も振り返る。耳もずっとずっと遠くなった。物忘れもずっとひどくなった。電話する度に、淋しい、ばかり言っていた。
日に日に老化は進んだ。ある日、お経の本をろうそくの火で燃やしかけていた。そのことがあり、一人暮らしはもう限界だろうと身内は判断した。施設に入ることになった。私は何も聞かされてなかった。私の知らないところで日程が決まり、去年の12月3日に連絡があった。叔母からのメール、12月10日に婆ちゃんは施設に入るので江波の家を引き払う、と…。婆ちゃんの家は、わたしが産まれた頃からの思い出が溢れる3DKだった。荷物は全て処分し、必要最低限のものだけにするのです。手伝いに来るように言われた。私にとっては処分する物なんて何ひとつない。全てが思い入れのある宝物。手伝いにゆかなかった。婆ちゃんに電話をしたら電話の奥で婆ちゃんは淋しそうに言う。婆ちゃんは施設にいれられるらしいんよ…嫌じゃ、って。私は悔しくて泣いた。婆ちゃんも泣いてたかもしれない。荷物をまとめた最後の夜、泊まりに行った。私が小さい頃に割ったガラスをテープでとめて20年以上使っている。破ったふすまにまつわるエピソードも婆ちゃんの宝物の思い出話。何億回も聞いた。今日でここに寝るのも最後、海が見える婆ちゃんがいつも痛い部屋には私が描いた絵がいっぱい貼ってあり、大好きなキューピーちゃんに服を縫っては着せてあちこちに置いてあった。言葉に言い表せない淋しさの中、眠った。

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