短中編

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それは夏を目前に控えた練習試合での事だった。

―クリスの離脱。

チームにとって大きな痛手。そして、歯車が軋み始める合図。

故障が発覚した時、クリスの肩はボロボロだった。以前からその怪我を押して試合に出続け、とうとう限界を超えてしまったのだと後から分かった。どうして気付けなかったのか、どうしてそれを言い出せる環境がなかったのか。後に悔いると書いて後悔とはよく言ったもので、事が起きてしまった後になって、千歳はそれまでの自分を酷く責めた。

『マネージャー、失格だわ』
「文月さん…あなた一人の責任じゃないわ。私達も気付けなかったのは同じ…怪我をしている事すら言い出せなかったプレッシャーを、緩和してあげることが出来なかった指導者にも、責任があるわ」

病院のロビーで会計を待つ間、ずっと思っていた。やはりやり切れない思いはある。けれど時間は、夏は待ってはくれない。前を向かなければ。選手は進まなければならない。それを支えるためにも、自分達が立ち止まってはいけない。

『…彼の代わりに正捕手を努める人を、選ばなきゃいけないわね』
「…そうね」

迷っている暇は、ない。

監督の決断は、その時点での最善だったと思う。

「レギュラー捕手、1年 御幸」

クリスの抜けた穴を補えるのは、御幸しか居なかったのは事実だ。元々の実力は申し分無い。天性の才能と言って良いものを持ちながら、努力を怠るなどしなかった事も知っている。飄々としていながら、野球に関しては限度を知らない程だという事も。しかしそれまでも年功序列も関係ない物言いをしてきた為に、上級生にはあまり良く思っていない者も少なくはない。今回、クリスの後釜のような形でその位置を与えられたことも、クリスと共に戦ってきた者、或いはその姿を見てきた者の一部にとっては、受け入れ難いものだったのかもしれない。
御幸に力が不足しているところがあれば、彼らもああはならなかったのだろうか。
自力で勝ち取るはずだった背中の2、それは望まない形で転がり込んで来た。こんな風に受け取りたくはなかったと、悔しさの様な、悲しみの様な思いが湧いたのは記憶に新しい。せめてこの数字に恥じない様に、チームが勝利を手にする為にと一層練習に打ち込んだ。その結果、実力不足だと後ろ指を指されることは無く、チームも順当に白星を増やしていった。それでも、「天才だから」で片付けられてしまうせいか、周りとの確執は深まるばかりだった。

「ムカつくんだよ、1年の癖にレギュラー取ったくらいで調子乗ってんじゃねーぞ」
「…調子乗ってるように見えましたかね」

またこれか、と半ば呆れながら、苦笑いで返す。気にする様子もない相変わらずのその態度に、目の前に立つ先輩は余計眉を顰めた。1年のクセに、お前にクリスの代わりは務まらない、そんな言葉は何度も聞いた。同じ事しか言えないのか、アンタ達は。言葉を覚えた文鳥か何かか。もちろんそんなことを口に出すつもりはないが。せいぜい傷付いていますと言う風に、斜め右下に視線を落とした。

「おい聞いてんのか!」

どうやらシカトしていると思われたらしい。残念。泣き真似でもすれば良かったか。いや、プライド的に無理だ。いっそ完全に聞き流していた事にして、話終わりました?じゃあ戻ります。と強制的に終わらせようかと考えたが、それはそれで火に油を注ぐことになり兼ねない。

「(あぁもう、面倒くさい)」

しかし、相手も野球を続けて来た生粋の球児だ。暴力沙汰なんて馬鹿なことはしないだろう。我慢さえしていれば、野球は出来る。自分が我慢すれば、それで済むなら、そうする。
返答をしなくなった御幸に、男の苛立ちはピークに達し、握り込んだ拳を振り上げた。

『何をしているの』

氷のように冷たく鋭い女の声。御幸に向けて振り下ろされるかと思われた拳は、行き場を失い力なく下ろされた。冷静になったのだろう。

『何をしてるのかって聞いてるのよ』
「……」

鋭く射抜く千歳の眼に、男はバツの悪そうな表情を浮かべ顔を逸らした。御幸はその光景を見ながら、あの時みたいだとぼんやり考えた。

『こんな事をして、何かが変わると思っているの?滝川君が今すぐ戻ってくるとでも思ってるの?あなた達も聞いたでしょう、復帰まで最低でも1年以上。あなた達がいくら彼に当たろうが、それがどうにかなる訳でも、ましてや監督の決定が覆る訳でもないわ。あなた達が何を思って彼に八つ当たりしていたのかなんて知らないけど、知りたくもないけど、チームでの彼の立ち回りは文句をつけるような物じゃないわ。1年のクセに?笑わせないで。グラウンドでは選手は全員対等よ。文句があるならプレーで語りなさい。けど一つ言っておくわ。彼が正捕手に選ばれたのは、他の誰も滝川君の代わりになれないから。御幸一也しかいなかったから。要はそう言う事よ』

事実と正論、それらで捲し立てる千歳の剣幕に反発できるだけの弁論術を、男は持ち合わせていなかった。

『あなた、さっき殴ろうとしたわよね。利き手で。本気で野球やっているなら、頭に血が昇っても利き手で人を殴ろうとするんじゃないわよ』
「…うるせぇ」

吐き捨てるように力無く呟き、一瞥も遣ることもなくその場を去っていった。

『一也』

先程とは打って変わって、優しい声音だ。中学時代に聞いたそれと同じ、姉としてのもの。部活中は完全に公私を分離しているため、対して話すことも無かった。そのためか、姉弟だと知る者はほぼいない。こうして名前を呼ばれるのは、少しばかり懐かしい。

『さっきのは、よくあることなの?』
「…割と?でも俺気にしてないし、俺がクリス先輩の代わりなんて、対それてるのは事実だから…先輩達が良く思ってないのなんて今更だよ」
『…どうしてあなたってそんなに馬鹿なの』

やっぱり、あの時と同じだ。と御幸は他人事のように考える。怪我をして傷付いていた昔の自分に向けられた、悲しみを含んだ慈愛の眼差し。今はそこに少しの憤りの色も伺える。

「ごめん…姉ちゃん、怒ってる?」
『怒ってるわ。何も言わなかった一也にも、気付けなかった私にも。一也はもっと周りを頼ってもいいのよ。少なくとも、お姉ちゃんはずっと一也の味方よ?』
「…ありがと」

どこまでも姉であろうとする千歳に、ささくれかけていた心が少し丸くなったようだ。重く垂れ込んでいたものがすっと軽くなった気がした。
いつまでもこんな所にいるわけにもいかないが、並んで出ていくのも気が引けた。千歳は御幸に先に戻るように言いくるめ、暫くその場に残った。元々あまり人の来ない倉庫裏だが、そんなところから揃って出てくるのを見られでもしたらあらぬ噂が立つに決まっている。自分は構わないが御幸の事になれば別だ。まぁ、あの場面に飛び出して行った時点で何かしら言われる可能性はあるが。

『(…ダメね、私。結局守れてなかった)』

チームメイトの離脱からは、前を向いたはずだと思っていた。しかしそれは、まだどこかで思いを蝕んでいたようだ。守ると決めた弟の事に気付けなかった事が、それを如実に表しているようだった。落ち込んでいる暇はない、早く立ち直れと自分を叱咤した。
これまでこの事が目立たなかったのは、3年の東を初め、2年のレギュラー陣や1年の中でも数人が御幸に構うようになり、孤立することが少なくなったお陰なのだろう。グラウンドでは強気な割に、その場を離れると人と距離を置いている事を何となく感じ取った彼らは、誰ともなくそうし始めたらしい。千歳にとってもそれはありがたい事だった。マネージャーではどうしても行き届かない場所もある、そういった所で彼らと居てくれれば、安心だと思っていた。しかしクリスの一件もあり、御幸は周りに迷惑をかけまいと一人で片意地を張ったのだろう。それで今回のような事が繰り返された。と、そう解釈した。

「…文月?」

顔を上げると、睨んでると取ってもおかしくない、不思議そうな表情で伊佐敷がそこにいた。

『…あら、どうしたの?』

少しの間を置いて、いつもの顔を引っ張り出す。

「どうしたのじゃねーよ、何してんだこんなとこで。腹でもいてーのか?」
『違うわよ。別に、何でもないわ』
「何でもない訳ねぇだろ。ンな辛気臭ェ顔しやがって」
『…心配症なの?意外だわ』
「ちげーよ!つか意外とか言ってんじゃねぇ!」

とにかく、と無理やり話を繋げる。

「話くらいなら聞いてやっから、ンな顔してんじゃねーよ。何かあったんだろ?」
『本当に何でも無いわよ、あなたが心配するようなことは。それとも、私に貸しを作ろうとしてるのかしら』

取り付く島もない、と思われれば都合がいいのだが、伊佐敷は溜め息をつくものの、引こうとはしなかった。

「…お前、意地っ張りなんだな」
『そう見える?いい眼科紹介してあげてもいいわよ』
「そうやって皮肉言えば諦めると思ってるとこもだ。何怖がってんだよ、弱み見せるくらいしたって誰も文句言わねーぞ」

これだけ確信めいたことを言えると言うことは、今たまたま見かけて声をかけたという訳でも無いのだろう。恐らく、かなり前から。普段通りに努めてきたつもりだが、虚勢でしかなかったのか。千歳は観念したように溜め息を吐き、肩を落とした。

『一体いつから見てたのよ、私の事』
「…んなもん、覚えてねぇよ。けど、クリスの事があってから感じが変わってきたのは分かった。そしたらさっき、お前が死にそうなツラしてやがるからよ」

至極言いづらそうに答える。それを心配と言わずになんと呼ぶのか、つくづくこの男は不器用だ。そのまま返答せずにいると、自分の発言に気づいたのかみるみる顔を赤くしていく。

「いや、ちげぇからな!そういう意味で言ったわけじゃねぇからな!」
『そういう意味って?』
「だっ…何でもねぇよ!」
『あら、私が気になって気付いたら目で追っていたって言う意味じゃないのね』
「分かってんじゃねーか!…って違ぇ!だーっ!くっそ馬鹿か俺は!」
『随分と忙しそうね』

動揺しすぎだろう。投手としては致命的なほど表に出ている。外野手に転向して正解だ。

「クッソ、カッコわりぃ…」
『愉快だったわよ、滑稽で。でもそうね、少しは気が晴れたわ、ありがとう』
「俺は良くねぇ!!」

辺りには伊佐敷の遠吠えが響いた。



End

(人であることを受け入れようと)

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