短中編

□ユートピアの創造主は1
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私の世界は弟を中心に回っている。これは自他共に認めているし、断言できる。それは揺るぎようのない事実であり、私にとっては必然であり、当然の事だった。そもそも、私が今現在野球部のマネージャーという立場に就いている事こそが、それを証明している。
もともと、私はそこまで野球を含めスポーツの類には一切の興味も関心もなかった。こんなことを言うとそのうち誰かに背後から刺されそうな気もするが、これが実際であるのだから仕方の無いことだ。しかし、それがどうして急にそんな未知なる世界に飛び込んだかと言えば、それこそ弟の影響だ。

事の発端は中学時代まで遡る。当時、私は戸籍上、実家と呼ぶべき住まいから撤退し、親戚である叔母夫婦の元で厄介になっていた。夫婦には一人息子がいたが、成人を前に独立し、既に家を出ていた。私が家に置いてもらいたいと頼み込みに行った時は大いに喜ばれたものだ。どうせなら二十歳になるまでいてくれて構わない、本当は息子の二十歳の誕生日をこの家で祝ってあげたかったのだと聞いた時は、早過ぎる独立も親不孝なのだろうかと考え直した。
私が実家を出たのは、別に家庭に不満があったわけではない。貧しくはないし、溺愛している弟もいた。それでもこの決断に至ったのは、私に、あの家の主と血の繋がりが無いということが大きな要因だ。あの家の主、簡潔に言えば父に当たる人物は、母の再婚相手だ。本当の父親は私が産まれる前に、と言うより、私が母の胎内に宿った時には既に行方を晦ましていたらしい。親となる責任から逃れようとする、最低男にはよくある行動と言える。その後の母の行動力も大したもので、なんと私を出産するまでの間に相手を見つけ、結婚に踏み切ったのだ。それを承諾した彼も彼だ。詰まるところ、私が生まれる頃には両親は健在だったのだ。この話を母から聞くまでは、彼が父親だと信じて疑わなかったし、すぐ後に産まれた弟も母によく似ていたから、何も疑問を持たなかった。なぜ母がそんな話をしたかと言えば、暗い話、死期が迫っていたのだ。
美人薄命とはよく言ったもので、弟が小学校に上がる頃には彼女はかなり衰弱していた。入院しての闘病生活の甲斐無く、私達姉弟は母親との早過ぎる別れをしたのだ。それは丁度、弟が10歳の誕生日を迎える頃だった。私はその後、父の仕事場へ出向き話をつけた。
―家を出ようと思うの。行く宛ならあるわ。お母さんの親戚の家、この近くだから、転校する必要もない。
―なぜ、そう思ったんだ?
―私はお母さんの連れ子みたいなものでしょ?手を引いていたか、お腹の中にいたかの違いだけで。つまり私はこの家の血縁ではないって事。お母さんが死んだ今、私が家にいる理由はただの書面に記されているからと言うだけ。だから私は少なくとも血筋である親戚の元でお世話になる。自然な事だわ。それに食い扶持が減った方が、あの子にかけられるお金も確保できるじゃない?貴方が稼いできたものは、あの子のために使ってほしいの。
―…子供が難しく考えるもんじゃないぞ。
―考えてしまったものは仕方ないわ。
―…言っても聞かない顔だな。分かった、好きにするといい。
―…ありがとう、お父さん。
私はその時まで父のことをそう呼んだことは殆ど無かった。言いなれない単語を発した後、別れを告げた。そうして、多くはない私物をまとめて私は家を出たのだった。
話を戻すと、実家を出るという暴挙とも呼べる行動に出たことからも想像が付く通り、私はその頃はさほど弟に対しての思い入れも無かった。その認識に変化をもたらしたのが、中学時代と言うわけだ。学校に関しては何ら変わらなかったため、学内で会えば弟は「姉ちゃん」と呼んでくれていたし、勝手な都合で出ていった私を咎めることもなかった。きっと私が思っていたのと同じように、弟にとっても私に向ける関心は希薄だったのかもしれない。
そんなある日、私がいつものように帰路を辿っていた時のこと。河川敷から吹き上げる風を受け、西日に照らされながら歩くいつもの景色の中に、明らかに異質な光景があったのだ。一人体の大きな少年の固く握られた拳は一際小柄な少年に振り下ろされ、その周りの少年達は、その小柄な少年を取り押さえている。典型的な暴力。私が視認したそれが最後だったらしく、声をかける間もなく少年達は去っていった。一人残った例の小柄な少年は、軽く服についた土を払うと何事もなかったように土手を上がり歩道を歩き始める。私は衝撃を受けた。だってそうでしょう、それは紛れもなく弟で、このような事に既に慣れてしまっていたのだから。私は地面に縫い付けられたような足をどうにか動かし、前を歩く弟を追った。

『一也』

振り返った弟は、その大きな瞳を更に丸くして驚いた顔をした。

「姉ちゃん。珍しいね、こんなとこで」
『私はいつも通り帰ってきただけよ。あなた、随分服が汚れているけど』
「…今日練習あったし、それでだよ」
『最近の野球はこんなケガもするのかしら?』

手を添えたのは、明らかに殴られた後の打撲痕。

『確か、いくらか前にもこうして怪我をして帰ってきた時があったわよね。あなたは意外とドジだし、転んだって言われて信じていたけど、本当の事を話して頂戴』
「…姉ちゃん、もしかしてさっきの見てた?」
『最後だけよ。声をかける前にあの子達帰って行ったもの。それで、どういう事なの?』

一也はほんの一瞬目を伏せると、何でもないように話し出した。

「生意気なんだってさ。俺思った事すぐ言うし、気に入らないんだって、先輩たちは」
『…まぁ、集団なんて結局は縦社会。年下にあれこれ言われていい顔する人間の方が珍しいわ』
「けど、グラウンドじゃプレイヤーって言う同等の立場なんだし、学年なんて関係ねーじゃん。それでどうこう言うのはカッコ悪い、負け犬にしか見えないよ」
『そうね。一也の言う事も一理あるわ。でもこれが会社とか、エンジニアの世界だったら、新卒の新人が経験のあるベテランに文句言うのと同じよ?そんなことしたらすぐ首が飛ぶわよ。今はそれも通用するかもしれないけど、それが許されなくなる時が必ず来る。人間関係は頭を使うのも大切よ』
「でも、実力主義の世界じゃそんなこと言ってられないでしょ。勝つためなら何だってするし、良いプレーする為なら先輩相手だろうがどんなダメだしだってする。俺はこれが間違ってるとは思ってない」
『私は何もあなたの考えを否定してるわけではないのよ。上手い世渡りとして一つの案を提示しているだけ。でも、こんな怪我までして野球を続けて、一也に何が残るのと言うの?あなた、傷付けられる事に慣れきってるじゃない。そんなこと、慣れて欲しくないわ』

所々にマメが出来始めている、一也のその未成熟な手を両手で包み込む。

「…怪我は痛いよ。本音言うともう御免だよこんなの。でも、俺今野球が物凄く楽しいんだ。もう野球が楽しければ何だって良いって思ってる。この前なんて、初めて完敗したって思えた人と出会ったんだ。全部負けて、それから初めてあの人に追いつきたいって、追い越したいって思った。だから野球はやめない。やめたら多分、俺死んじゃうから」
『……』
「姉ちゃんが心配してくれてるのは分かった。でも、これは譲りたくないんだ」
『…一也が話せば、虐めていた彼らには処分が下るはずよ』
「うん。けど言うつもりは無いよ。うちのチーム人数少ないから、あんな人達でも抜けられたら困る。9人いなきゃ野球はできないから」
『そう…ね、団体競技だもの。…一也の気持ちは分かったわ。やめろなんて不躾なことは言わない。けど、練習以外で怪我をすることは許さないわ。野球をするのはあなた自身、その身体を労らないでどうするのよ。これからはちゃんと自分を大事にしなさい、良いわね?』
「…うん。ありがと姉ちゃん」

そう言って少しはにかみながら微笑む一也は、やはり母によく似ていた。この時、この子は私が守らなければと、強く思ったのを覚えている。
それからと言うもの私は野球について徹底的に知識を取り入れ、放課後は必ずシニアの練習場まで足を運んだ。それまでは迎えなどいなかったから、練習後に密かに暴力を加えられていたのだろう。私が行くようになってから、そんな怪我をすることもなくなっていた。学年が上がってからは、私は進路について選択を迫られる事になったが、当初予定していた近所の公立と言う選択肢は早々に破棄した。選んだのは名門と言われた青道高校。以前一也がスカウトを受けたと言う高校、もちろんそこを受ける保証はないが、可能性は最も高かった。風の噂によれば、一也が尊敬してやまない人物が、青道に行くかもしれないのだ。そうなれば、恐らく間違いない。私の行動理念は既に一也を中心に成り立っている、ただひたすら野球に打ち込む一也を支える意味でも、私はマネージャーになると言う決断に至ったのだ。卒業までは頻繁に野球部の練習風景を見に通い、青道の野球というものを頭に詰め込んだ。

これが、今日に至るまでの、文月千歳の動向である。



End

(たった一人の為だけに)

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