短中編

□幸せの方程式
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これの大分前の話



「おめでとうございます」

目の前の女医は、検診の結果からそう告げた
連日続いた気だるさと吐き気を不審に思い、簡易検診だけでも受けに来ていた
そして判明した、自分の妊娠

高校を出てお互いプロの世界に進み、安定した頃に式を挙げた
それから暫くしての事だった

「これから定期的に検診にいらしてくださいね、妊娠が分かったときからあなたは母親の卵なんですから」

『はい、ありがとうございます』

新たな命が宿った自身の腹に手を添えて微笑んだ

ロビーで待っていた栄純は、診察室から戻ってきた私に気付くと軽く手を上げて手招きした

「千歳、どうだった?」

『思った通り妊娠してたよ』

「そっか、良かったな!」

『うん、しっかり育てていかなきゃね』

「そうだな。俺も千歳に無理させないようにしないと」

『ふふ、ありがとう栄純』

これから二人で築いていく幸せな未来
お腹の子はきっとその鍵になると信じていた

「生まれてくる子、どっちなんだろうな」

『まだ分からないよ、2ヶ月だもん』

「そうだけど、やっぱ気になるじゃん。名前考えるのも楽しみだしさ」

『そうだね…男の子だったら何がいいかな』

試しに聞いてみると、腕を組んで本気で悩み出したので笑ってしまう

「そんな笑わなくてもいいだろっ」

『だってまだ分かるのも先なのに本気で考えるんだもん』

「ったく…でも男の子だったらきっと一緒に野球やるんだろうな」

『そんな気はしてたよ。じゃあ名前は栄心とかどう?』

「おぉ、良いかもそれ!逆に女の子だったらどうする?」

『だったら…名前は美雪がいいな』

「えっ」

『何その嫌そうな顔は』

「いや、その名前先輩にいるし…」

『でも、雪って字は絶対入れたいの。このままいけば予定日は12月だから』

「だからって…なんか複雑だぞ」

栄純の都合は知らない
折角冬の、雪の季節に産まれるかもしれないのだ
真っ白な雪のように美しい心で育ってほしいと、そんな願いを込めた名前にしたかった

「まぁどっちにしてもさ、まずは元気に産まれてくれれば嬉しいよな」

『そうだね。この子のためにもたくさん食べなきゃ』

慈しむように腹を撫でる
栄純はその手に左手を重ね、右腕で私を抱き寄せた

「千歳」

『栄純?』

いつも以上に優しい声だった

「俺さ…千歳を好きになって、子供もできて、すっげー幸せなんだ」

『どうしたの急に…そんな改まっちゃって』

「いいから聞けって。きっとこの今は千歳がいなかったら成り立たなかったと思う、千歳が俺を幸せにしてくれたんだ」

穏やかに語る栄純は、いつの間にか大人の顔になっていたようで、いつまでも子供染みていると思っていたから不意打ちだ

「だから今度は、俺に千歳を幸せにさせてください。これから大変になってくと思うけど、俺に半分背負わせて。何があっても千歳を傍で支えてやるって、約束するから」

強い決意を秘めたその瞳に、年甲斐もなくときめいたのはここだけの話

『栄純…私はもうとっくに幸せだよ。あの時、栄純が結婚しようって言ってくれた時から…もっと言えば、出会った時から幸せだった』

実る望みの無い片想いに涙した時でさえ、好きだという気持ちを知れた事を幸せに感じていた

『だからね、どっちがっていうのは要らないの。一緒に幸せになろう?二人で…ううん、この子も含めて三人で同じ未来を見よう?どんなに辛いことが待っていたって、きっと大丈夫。私には栄純もこの子もいるんだもん、こんなに心強い支えは他に無いよ』

「千歳…」

私の言葉に栄純ははにかみ、額にキスを落とした

「そうだな、幸せな家族になろう。みんなで」

『うん…!』

そう、約束したんだ

手を繋いで歩いて行けば、全てが上手くいくような気がしていた
だから、なにも不安なことなんて無い
そう思っていたはずなのに

降って湧いた不安は、心の片隅で徐々に膨らんでいた

何度目かの悪阻で嘔吐する私の背を擦る栄純に、とうとう話してしまった

『ねぇ、栄純…』

「どうした?まだ気分悪いか?」

『ううん、平気。それより…おかしい、よね…もう5ヶ月になるんだよ…?なのに、殆ど変わってないの』

体重は確かに増えている。しかし、それに見合うだけの腹部の膨らみが現れていないのだ
5ヶ月にもなればそれなりに妊婦らしいシルエットになるはずなのだが、私の立ち姿は妊娠当初と大差無いままだ

「…一度、詳しく診てもらおう。殆ど知識無い俺たちじゃ分からないことなんだし…」

『うん…』

医師に診てもらい、そして良くないことを宣告されたら…
そんな一抹の不安が無いことはなかったが、私は思い描いた未来を信じたかった



「…死産する可能性もあります」

無情にも、医師の宣告は受け入れがたいものだった

『どういう、事ですか』

「簡単に説明しますと、胎児が生き長らえ成長するスペースが、平均的な人よりも狭まっているのです。普通の女性より、鍛えていらっしゃいますよね。それに遮られ、外側に膨れる余地がなければどうなるかは分かりますでしょう」

『…内側に、押し込められて…』

「そうです。今あなたの臓器のいくつかは胎児によって圧迫されている状態なのです。このまま成長させれば、胎児が圧死する可能性も、母体であるあなたも危険な状態になる可能性もあると言うことです」

光が色褪せ、遠ざかって行くような感覚
約束したはずの幸せな未来
もうそれを望むことはできないのだろうか

「大変気の毒ですが…危険な状態になる前に、流産させた方があなたの身体のためかと…」

『…先生、それは全て可能性の話ですよね』

「ええ…」

『なら…私も赤ちゃんも無事に産まれてくる可能性も残っているんですよね。だったら、私はそれに賭けます。たとえ50%でも、未来を繋ぎ止めることができるならそれを選びたい。この子の存在は、私たちを幸せに導いてくれた。その命を、私の勝手で奪っちゃいけないんです。だから、私は怖がりません。この子を産んで、自分の腕に抱くまでは絶対生きるって…決めました』

どうなるかなんて分からない
それでも、私に幸せを教えてくれた彼のためにも、この命を摘んではいけない。私自身も

三人で同じ未来を見よう、そう言ったのは私なのだから



それから、幾つもの月日を越えてその日が差し迫る
当初の出産予定日
私の腹部は相変わらず妊婦離れしているが、今のところ私自身も胎児も無事だ
未熟な命は狭い空間にも関わらず、懸命に生き延びている
5か月目の宣告からは多少ながら膨らんだように思う

「普通なら、すっかり脹れたお腹擦ってやるのにな」

『ごめんね代わり映えしなくて。ほら、腹筋厚いから』

「そういうこと言うなよ…思い出すだろ」

『全盛期は割れてるの一歩手前だったっけなー』

「やめてくれ」

女はみな柔らかいものだと思っていた栄純少年にはちょっとしたカルチャーショックだっただろう
それでも傍においてくれている辺り、自惚れても許されるくらい愛されているのだろうか

『…っ、痛…』

急に訪れた鋭い痛み

「千歳っ?」

『っ…栄純…、救急車呼んで…っ産まれるかも』

「分かった!」

ズキズキと痛み出し、息が上がる
思考だけは冷静で、これから来る痛みはこの比ではないだろうと考えていた

到着した車に運ばれる間、栄純はずっと私の手を握ってくれていた
病院に着くと早急に産婦人科に通され、長いお産が始まる
最初の出産では分娩が優に10時間を越え、半日以上かかる場合もあるという

『えい、じゅん…っ』

「千歳、頑張れ。大丈夫だから」

『う、ん…』

栄純は看護師らと同じ服装をして隣に留まる
他の夫婦にも同じ配慮をすることはあるそうだ

「息止めないでくださいね、ゆっくり深呼吸してください」

ラマーズ法とはまさにこの事か

想像を絶する痛みに意識すらも飛ばしてしまいそうになるが、私の手を握る栄純が声をかけてくれるお陰で理性はまだ残っている

大丈夫、頑張れ、たったそれだけの言葉がとても心強かった

もう時間の経過も分からなくなっている
医師に何度目かの力みを促され、限界に近い気力を振り絞った
遠退きかけた意識に、新しい命の産声が聞こえた

『っは…、はぁ…ハァ…っえいじゅん…』

「千歳っ、よく頑張ったなぁ…!ちゃんと産まれたよ、元気な女の子だって」

『良か、ったぁ…』

危ぶまれていた事態は何も起きていない
生理的な涙と、我が子の誕生による感動の涙とが混ざって零れた
栄純も同じように、涙ぐんでいた

赤子は看護師の的確な腕で産湯につけられ、羊水を洗い流された後病室に移った私の隣に寝かせられた

「ホントに、産まれたんだなぁ。俺達の子供…夢みたいだ」

『夢なんかじゃないよ。私頑張ったもん』

「そうだけど、どうやってもその痛さは俺分かってやれないから…でも、幸せってこういうことかな」

『ふふ、そうだね』

眠り込んでいる天使のような赤子の、小さな手を握ってみると、無意識であろう反射で握り返してきた

『ねぇ見て栄純、手、握り返してくれるの』

「ホントだ。千歳が母さんだって分かってんのかな」

『だといいね、パパさん』

「!千歳、それ反則…っ」

『だってもう私達パパママだよ?』

「嬉しすぎてどうにかなりそう」

顔を手で覆うが、隠しきれてない耳が赤くなっていた

『栄純』

空いてる手で手招きして引き寄せた

「千歳…」

『ん…』

この数年ですっかり上手くなったキスを交わす
愛情が液化して心身に染み渡るような、ふわふわとした感じがする
何もかもが満たされるとはこう言うことかと、自己完結して笑った

ここから数年間、嵐のような育児ライフが待ち受けているのはまた別の話だ


私がいて、栄純がいて、大切な娘がいて…それが私の、幸せの方程式

end

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