短編

□太陽光の君に纏う、四季の香り
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 姿が見えない。
 だと言うのに、その存在は確かに感じる。
 そういうものは往々にしてある。とりわけ、花の香りなんかは。




 ふわり、とフルーツに似た花の香りがした。そっと吐き出した白く冷やされた息は、静かに素早く空気に溶ける。うっすらと景色を白く彩る霜や淡雪が残る冬の時期。
 フルーツに似て、けれど清涼感も感じられる香りは、確か蝋梅のものだったか。
 周囲を見渡しても花そのものはないけれど、冬、という季節柄、どの植物も花を咲かせることはあまりなく。その可愛らしい姿と芳しい香りから、耳馴染みのない花の名前を覚えてしまった。
 きょろ、と周囲を見渡しているのは何も私だけではなかったようで、少し離れた場所では同じ歳くらいの男の子が、鼻の頭を寒さで赤くしながら、香りの元を探していた。
 ぱち、と目が合って、それから同時に息を吐き出す。白くなった二人分の息はそれぞれ風に運ばれて消えた。

「こんにちは」
「どうも」

 ぺこ、と頭を下げると、彼も同じように軽い会釈を返してくる。その時、一層強く冷たい風が吹いて、彼の頬や耳、私の額をピリピリと刺して行った。次いで、今まで以上に強く芳しい蝋梅の香り。
 ひらり、と花びらが彼の身につけているマフラーに、そして私の目の前に振り落ちてきた。黄色く、香りの強い、梅の花弁に似た蝋細工みたいな花びら。ちょん、と二人揃ってその花弁を指先でつまんだ。

「素心蝋梅…近くに咲いてるのかな」

 花びらが運ばれてくる、ということは。そんなことを囁くと、名前も知らない彼は首を傾げて「詳しいな」と呟いた。

「え?」
「あ、いや…花びら見て、花の名前言ってたから」
「あ、うん」

 少し興味があって。そんな風に言えば彼は、ぱ、と暖かで快活な笑みを見せると、「すげーじゃん」と声を弾ませた。

「そんなこと、ないよ」

 そう言いつつも、いつもより少しだけ早い自分の鼓動に、あれ、と首を僅かに傾げた。





 これは藤の香りかしら。ちょっと呟いた言葉に、感心したような声がかかる。

「そんなに強い匂いじゃないんだな」
「え、わ、びっくりした…」

 冬のあの日、初めましてさえ交わさなかった彼とは、時折すれ違う程度の交流を繰り返していた。互いに、未だ名前は知らない――というのはちょっと嘘になるかもしれない。すれ違う時は、一人でいたり、友人といたり。
 そんな感じで、私は彼の名前が『わや』であることを知っていて、彼も私の苗字か名前くらいは知っているかもしれない。
 それでも、改めて名乗ったことは無いし、名前で呼んだことは無い。
 そんな距離感が、心地よかった。

「こんにちは」
「よ!」

 今日も囲碁? そう問うのは、彼が好きだと言っていたから。なんの気ない世間話の中で聞く事が出来た、彼を形作る『一部』。

「ああ」

 一つ頷く彼は、瞳に真剣な色を宿してキリリと鋭い笑みを見せた。
 いつもは太陽の光に似て、強かったり、柔らかかったり、暖かで溌剌とした笑みを浮かべている彼は、こと囲碁の話をしている時は、その瞳の中に真剣に似た鋭さを帯びる。
 その光の違いを見るのが、好きだ。
 自覚したのは冬から春に季節が移ろい始めた、気温が緩やかに暖かくなってきた時期。その頃はまだ彼の名前も知らなくて、モヤモヤと陰る胸の中に、快活な彼の笑みが浮かんでは消えたりしていたっけ。

「頑張ってね」
「おう! サンキュ」

 パタパタと手を振ってそれぞれの向かう先へ足を進める。
 そっと後ろを振り返って彼の背を見た。春の暖かな陽光が、彼の茶色い髪を撫でるように照らしていた。





 ジリジリと紫外線が痛い。はぁ、と茹だるような暑さの中で溜め息を吐き出した。景色が揺らぐようだなぁとぼんやりベンチに座っていると、不意に『蜃気楼』なんて言葉が浮かんだ。
 昨晩の雨のせいで地面が濡れている。太陽の熱で陽炎が作られているのをぼんやり眺めながら、手で風を送るように扇いだ。
 ふと、木々の新緑が揺れる音が聞こえた。さわさわと緩やかな風が心地よく吹いていて、私の髪や肌を撫でる。ゆっくり息を吐き出した私の視界に、ちゃぷん、と揺れた水音と共にペットボトルが映りこんだ。

「大丈夫か?」

 飲めよ、と差し出された水。キラキラと光を反射する、その水を差し出してくれているのは、彼だった。ぽかん、とした表情で見上げている私に、呆れたような溜め息を吐き出した彼は、パキ、とキャップを取ってくれた。

「熱中症になっちまうぞ」
「あ、ありがと」

 冷たい水が喉を通り過ぎる。程よく冷やされたそれが喉を通り胃に落ちて行く感覚に、ゆるゆると長い息を吐き出した。
 そこへ、風に運ばれてきた甘やかな香り。

「ユリの花だわ」

 もう咲く時期だったかしら、とぼんやりしたまま呟けば、ペットボトルを握っていたせいで冷やされた彼の手のひらが額にかかる。
 冷たい、と呟きながら目を閉じれば、何度か額と頭を往復した彼の手がそっと離れる。
 身長は、あんまり変わらないと思っていたのに。
 自分の掌に視線を落として思う。
 彼の手、大きかったな。
 なんて。





 金木犀の香りが強く香ると、ああもう秋なんだなぁ、なんて思う。
 木々の緑が色づいて、秋らしい茜色や淡黄色に染まっていく頃。冬に近づいているはずなのに、春より鮮明な、夏よりも柔らかな、そんな色合いで景色が彩どられていた。
 冷たくなった空気に、首を竦めながら、それでもすん、と外気を吸い込めば香る金木犀に、ちょっと息を吐き出して、笑んだ。
 何となく、彼に似合いの香りかな、なんて思ってみたりして。風に運ばれてくる金木犀の香りは、花そのものはなくても強く印象付く、秋の風物詩。
 姿が見えない。
 だと言うのに、その存在は確かに感じる。
 自分の心に笑顔を残してくれた、彼のようで。
 そっと、今日は会えたりしないかしら、と思った。

「よ」

 すっかり秋だな。そんな言葉と共に彼が片手を上げて笑っている、彼。

「そうだね」

 なんて言いながら、私の頬も緩く笑んだ。

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