井戸を巡る水(恋)

□平成
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 鉛筆が欲しい、と呟いた声は空気に解けはしなかった。
 鉛筆? と聞き返され、清香は自分の口を覆った。口に出しているつもりは全くなく、誰かに聞かれているとも考えていなかったのだ。
 誰もいないと思っていたのに、だとか、昌浩くんは出仕してるし、などと考えながら振り返れば、子どものような姿の神将が座っている。服装は珍しいもので、清香にはどんな名前の装束なのか分からなかったが、どことなく『昔のっぽい』という印象が強いものだ。

「鉛筆とは?」
「えっと、詳しくはわかんないんだけど…」

 文字を書くための炭を、木で持ちやすくしたもの? と首を傾げながら説明をする。十歳くらいの見た目をした神将は、重さを感じるような慎重な頷きを返してくる。
 サラリと揺れる神将の、黒く短い髪を見つめながら、妹の晴美と同じくらいかなと考えてしまった。考えてしまったら無意識に手が伸びて、妹にしていたようにその神将の頭を撫でてしまった。

「あ、ごめんなさい」

 いくら見目が幼くとも、彼らは清香よりもずっと長生きなのである。その事に思い当たり、慌てて手を離すが撫で心地はどこか妹を彷彿とさせるくらい柔らかなものだったせいか、離れ難い、と内心では眉を下げていた。
 そんな清香の内心を知ってか知らずか、神将は「気にするな」と見目に似合わず重々しい口調で言い放つと、静かに立ち上がり部屋を出ていった。
 なんだか撫でられ慣れてる? と首を小さく傾げ、はたと安倍邸の主人を思い出す。稀代の陰陽師――安倍晴明は清香の頭を撫でることもままあって、もしかしたら神将たちも晴明さんに撫でられてたりするのかな、などと想像してみる。
 そんなことを考えているうち、ただいま、と昌浩の声が聞こえてくる。

「おかえり」

 振り返ると、疲れたように息を吐き出す昌浩の足元で、物の怪が先の神将が去っていった方を見ていた。どうかしたのだろうか。清香は、物の怪に声をかけようと口を開いたが、言葉を発するより前に物の怪が声を発する。

「玄武が来ていたのか」
「玄武?」
「子どもの姿をした神将だ」

 あの子かな、と先程の神将を思い出しながら頷けば、どんな話をしたの? と昌浩が尋ねる。

「うーん、鉛筆が欲しいって話をね」
「鉛筆?」
「私が使ってた筆記用具だよ」

 筆より芯が固くて書きやすいんだよね、と言いながら視線を文机に向けた。そこには文字を練習していたらしい痕跡があり、清香が苦虫を噛んだような表情を見せるほどには、下手な文字が並んでいる。

「前より上手くなってるじゃないか」

 清香から離れてそれを見た物の怪が、感心したような声を出す。その声を聞き、清香は胸の奥がほんのりと温かくなったような気がした。物の怪との距離が開いて、少しだけ寒さを感じていたというのに、彼の声を聞いて温もりを覚えるなんてと、そんなことをぼんやり思った。

「あ、そうだ清香さん。明日、あの井戸へ行ってみない?」

 日が落ちてからになるけど。昌浩は髷を手櫛で解きながら言う。言われている意味がわからず瞬きを繰り返しながら見れば、昌浩は長めの髪を紐で括りながら、「ちゃんと調べておくように言われてさ」と苦い表情をしながら言った。

「明日は月夜だし、この間よりはちゃんと調べられると思うんだよね」
「……ありがとう、昌浩くん」

 笑みを浮かべる昌浩に頷き返しながら、平成(向こう)へ帰れば物の怪と会うことも話をすることも無くなるのだろう、と考える。
 なんだか寂しい気がするなぁ、と口にはせずにそっと細く息を吐き出した。
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