井戸を巡る水(恋)

□平安
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 平安の時代。
 京の都。
 その栄華を極めた都の影には真の闇がひろがり、鬼、魔物、妖が、それを恐れる人の心に忍び入り、しっかりと息づいていた。
 闇に生きるものたちは時にその姿を現し、牙を剥き、見る者の心を揺さぶり掻き乱す。
 しかし、暗黒の世を鎮め、これらの鬼、(あやかし)を世の(ことわり)をもって制する者たちがいた。
 「陰陽師」と呼ばれる者たちである。
 森羅万象に通じ、人々が恐れるその闇を消し去る最強の陰陽師がいた――名を、安倍晴明という。



 月明かりの煌々とした道を狩衣姿の少年と、この時代には滅多に見ない珍妙な服装をした少女が並んで歩いていた。
 狩衣姿の少年の名は安倍昌浩。元服の儀を控えた十三歳の陰陽師である。本人的には非常に不服であるが、『あの』晴明の孫、と呼ばれることが多い。
 珍妙な服装――後の世でいうセーラー服というものを着た少女の名は、木之本清香。平安の世から数えてざっと千年ほど後の世を生きていたはずの十五歳の少女だ。本人的には何らおかしなところはない、普通の中学生、らしい。
 歩きながら昌浩と清香、そして二人の足元にいる猫のような体躯をした真っ白な生き物は、そんなようなことを話していたが、そもそも時を渡ってきた時点で普通じゃないかも? と三者三様に首を傾げていた。
 そもそも、足元の物の怪が見えて、かつ怖がるどころか「猫だ!」なんて喜色を滲ませた声を上げる少女が普通なわけない、と思うのは、日頃からそういった妖や魔物を見ている昌浩や、それらに近しい物の怪だけであるが。

「じゃあ、昌浩くんは私とそんなに歳が変わらないのに、もう働くんだね」
「清香さんは…えっと、中学生って何するの?」
「えっと…勉強かなぁ。国語とか、数学とか……英語とか」

 英語や国語、数学とやらが何かは昌浩たちには分からなかったが、清香の口ぶり的に英語なるものはかなり苦手なものらしい。
 しかし勉強かぁ、と昌浩は息を吐き出した。

「それなら、俺が陰陽寮ですることとあんまり変わらないかも」
「そうなの?」
「うん。陰陽寮に入りたての新人は直丁として雑用とかをしながら学んでいくんだって」
「大変そうだねぇ」

 呑気な会話だな、と足元の物の怪は思わず半眼しながら歳若い二人を見あげた。
 三人――正確に言えば二人と一匹――は、昌浩の家である安倍邸へ向かって歩いていた。昌浩の「じい様に聞いてみる?」という言葉に従って、かの有名な安倍晴明に清香の帰り道を聞いてみよう、という目的のためだ。
 と言っても、稀代の大陰陽師たる晴明とて、遥か未来の時代からきたという娘の帰り道など知らないだろうなぁと言うのが物の怪の素直な感想だった。なんせ、その晴明より長く生きている自分が知らないのだから。
 しかし妙だな、と思う。あの屋敷跡の奥にあった井戸は、なにか曰く付きではなかっただろうか? それがなんの曰く≠セったかは忘れてしまったが。

「清香さんって、昔からこういうの見えたの?」
「こういうのって、もっくんみたいな?」
「そう」

 いつの間にか随分打ち解けたらしい。歳の差も二つしか違わないせいか、仲の良い友人同士の会話が物の怪の上から降ってきた。
 もっくん言うな、と言いたいが、ならなんて呼べば良いのかと尋ねられても困る。本性を現すつもりは今のところなかったし、昌浩に教えた二つ目の名は、主である晴明とその後継である昌浩にしか呼ばせる気がない。

「うぅん、親戚はよく幽霊とか見えたみたいだけど…私はさっぱりだったなぁ」
「じゃあ、こっちに来てから?」
「多分…っていうか、本当にもっくんって他の人に見えないの?」
「まぁ、物の怪だから」

 年若の二人が交わす会話を黙って聞いていた物の怪だったが、昌浩の言葉を聞き、さすがに口を開いた。

「ちょっと待て。昌浩、お前なぁ…ちゃんと説明してやれよ。物の怪と言うのはなぁ、恨みつらみをもって死んだ人間の霊であって、俺のような可愛らしい異形の妖とはまったく別物なんだぞ」
「へぇー」

 物の怪の言葉に感心したような声を上げる清香は、足元で今日に二足歩行する物の怪をひょいと抱えあげた。さながら猫を抱えるかのような仕草に、物の怪は、はつりと紅玉の瞳を瞬かせた。

「じゃあ、もっくんは良い物の怪さんなんだね」
「……お前、話聞いてたか?」

 物の怪に良いも悪いもあるかっ! とくわり口を大きく開けた物の怪の背を、ぽふぽふと撫ぜながら清香は昌浩と共に歩き続ける。

「まぁ、物の怪事情とかよく分かんないし…その都度教えてよ」

 ね、と言って月明かりの下、清香はのんびりと笑みを見せた。
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