短編
□不意打ちに、光
1ページ/1ページ
少し前――と言っても、もう何年も前のことだけれど。
後ろから肩を叩いて、振り返った相手の頬を突く、という遊びが流行っていた。可愛いイタズラのはずのそれは、不意打ちが過ぎるとちょっとした事故を招く。
例えば、勢いがありすぎて頬や指を痛めたりだとか。
例えば、指先が、相手の唇に掠めたりだとか。
失敗したとて、親しい相手なら笑って許せるような戯れを、やってみたいと思う反面、失敗して呆れられたらどうしよう、と不安になる。
少女は傍らで授業を聞いている男子学生に視線を移した。
午後。ほんの少しだけ傾いた日差しが窓から降り注ぐ。のんびりとした古典の教科担任の声を聞きながら、大半の生徒が微睡み、ノートにミミズが這い回ったかのような筆跡が残っていた。
そんな中で、隣に座る九流比古という名の少年は、頬杖を付いて黒板を眺めていた。つまらなそう、と形容するには、真面目にノートをとっているようであった。しかし、興味深そうに、と形容するには『頬杖』という仕草が邪魔をする。
居眠りするよりはいいのかもしれない、と周囲に視線を走らせてから、再び九流を見れば、彼もまた、心地の良い陽気に誘われて小さく欠伸をこぼしているところであった。
見てしまった、と慌てて視線をそらそうとした彼女と、九流の視線が交わる。僅かばかり、生理的に浮かんだ涙で装飾されたまつ毛を震わせながら、彼はほんのりと微笑み、それから、至極小さな声で「見られちゃったな」と囁いた。
その微笑みが、西に傾いた陽の光を受けて、静かに咲く花のようでさえあった。
頬を突く、というイタズラよりも余程の、不意打ち。
どき、と心臓が跳ね、彼女の頬に熱が集まるようであった。太陽光のせいでも、室内の温度のせいでもない熱に、少女はそっと手の甲で頬を隠しながら視線を逸らす。なんだか、見てはいけないものを見てしまったような、そんな気分だと思いながら、伺うように視線を上げれば、九流はほんのりと笑いながら「うん?」と首を傾げる。
なんでもないの、と小声でいいながら左右に首を振れば、彼はふぅんと小さな音をこぼして、再び前を――黒板の文字を追いかけた。
また見たいと思いながらも、しかし、何度も見たところできっと慣れたりはしないと分かっている。
あの美しい光景には、何度だって心臓が跳ねるのだ。
少女はそんなことを思いながら、当初考えていた戯れの事など、すっかり思考の外に放り出してしまっていた。