短編
□薄明光線の世界の中
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晴れ、という予報はあくまで予報でしかなかったらしい。パラパラと降ってきた雨にそっと息を吐き出して、透明なビニール傘越しに、曇天を見上げた。
土砂降りにはならなそう、と淡い色合いの雲を見上げ、小粒の雫が、つつつ、と流れるのをぼんやり視界の端に捉えた。
待ち合わせの約束にはまだ早い。冷たい風に煽られて膨らんだワンピースの裾を、押さえつけるようにしながら、手首の時計で時間を確認する。
「……十五分前かぁ…」
早く来すぎちゃったな、とため息混じりに呟いた。どれほど今日が楽しみだったのか。自分の心理に呆れてしまう。
あの日もこんな雨だった。
俗に言う『霊感』というものが全く無いはずの私だったけれど、雨の日の夕暮れ、なにか良くないものに出会ってしまった。ぐわり、と大きく口を開いたそれのまえで、私はただ呆然と座り込んでしまった。冷たい雨粒が頬を打つ中、頭が簡単に噛み砕かれそうな歯並びを、恐怖のまま声も出せずに、ただただ震えることしか出来なかったあの時。
――煌めく美しい焔を見た。
耳を劈くような、本能的な嫌悪を湧き起こさせるような、そんななにかの悲鳴が上がる中、その美しい焔を放った人型の彼に、私は目を奪われていたのだ。
黒に似た赤い髪が焔のだって、熱で舞い上がっていた。甘やかで冷ややかな低い声。すらりと鍛えられた体躯に長い手足。整った顔立ちに、神秘的な褐色肌。そして、[[rb:金色 > こんじき]]に見紛う瞳。
その瞳に、一瞬で心臓を掴まれた。
騰蛇、という名の彼もまた、人ではないと本能が訴えていた。同じ[[rb:刻 > とき]]を生きることは出来ない、と。けれど、けれど私は、彼の声で名前を呼んで欲しかった。彼の瞳に映りたかった。
紅蓮、とそばにいた少年が呼ぶ名を、口にすることは出来ない。その名を呼ばれた時の彼の瞳が、暖かな光を称える、その瞬間を見て理解したのだ。その名は、彼が許した者にしか、呼べないものなのだと。
たとえその名を呼ぶことを許されなくてもいい。ただ、ただ彼に名を呼んで欲しいと、それだけを願ってしまって。
一度しか会ったことがないというのに、もっと言えば、初めましてだったあの日に、私は、どういう力が働いたのか――火事場の馬鹿力、とでも言うのか――名前を聞きだし『次』の約束まで取り付けたのだ。
「……どうかしてるわ」
怪しさ満点だし、自分でもドン引きだ。けれど、今こうして彼を待っているという現実が、彼と再び会えるという事実を私に自覚させる。
ビニール傘に雨粒が落ちる。その音が周囲の至る所から聞こえてくる中、不意に声がかけられる。その瞬間、まるで雨粒を空へ返すように、一陣の風が吹いた。彼の声が、晴れ間を呼んだように、雨雲の隙間から薄明光線が降り注いでくる。
「待たせたか?」
「いいえ、全然です」
待っている間もあなたのことを考えていました。そんなことを言えるような勇気は持っていなかったが「お会いできてうれしいです」と何とか言葉にすれば、彼は「そうか」と緩やかな声音をこぼした。その彼の表情が、柔らかな光に包まれているようで、泣きたくなるほどに美しかった。
ビニール傘をそっと閉じる。雨雲の僅かな隙間から降る光が、彼の髪を、姿を、鮮やかに柔らかく包んでいる。
その隣を歩きながら、芸術品のような彼の横顔を見つめた。