井戸を巡る水(恋)

□清香という少女
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 ね、猫って……と昌浩は傍らにいる物の怪に視線を流した。猫と指さされた当の本人――物の怪に対して人≠ニいう字を使ってもいいものか悩むところではあるが――とにかく物の怪自身は、器用に後ろ足で立つと不機嫌そうに腕を組んでいた。
 見たことも無い衣を纏っている少女は、そんな物の怪の様子をみて、首を傾げてみせると、またしても何度か瞬いた後、「あれ?」と小さく声を零した。

「なぁんだ、猫じゃないのかぁ」

 そう言った少女はしげしげと物の怪を眺めた。
 そんな少女からは邪気や妖気といった類の氣≠ヘ感じられない。人、でいいんだよね? と物の怪を見た昌浩の言葉に、物の怪は「恐らく」と返答しながら憤然とした態度で少女を見ていた。
 生気を感じる人間≠ナあることに間違いはない。しかしながら、物の怪の姿が見えるということは、それなりの『見鬼(けんき)』があるということに他ならない。
 見鬼とは、妖などの人ならざるものを見ることができる力のことである。見鬼の才とも言われ、見鬼の力の強い者であれば「見る」だけではなく、霊などの声をとらえることも出来る力である。
 目の前の面妖な姿の娘は一体何者なのか。物の怪と昌浩の思考が重なったのか、横目で視線を合わせた二人に、周囲を一通り見渡していた少女が声をかけた。

「あの…ところで、此処(ここ)って何処(どこ)か分かります? 私、井戸に落ちちゃったんだけど、這い出てきたら街並み……というか、景色がすっかり変わってて…」

 此処は何処かなぁ、なんて思ってみたりして。へらり、と笑う彼女からは敵意や殺気といった気配は感じない。見鬼があるだけのただの娘なのだろうか。
 それにしては物の怪を怖がるような様子はない。貴族・平民に関わらず、人は人ならざるものに恐怖するのが普通なのに、だ。

「えっと、ここは都はずれですよ」
「都はずれ?」

 都って? 首都のこと? そう首を傾げた少女に、今度はこちらが首を傾げる番だった。首都ってなんですか、と昌浩が尋ねる。
 その時ちょうど、雲が流れ月が周囲を明るく照らした。首都は東京…と言っていた少女が途中で言葉を途切らせる。
 なに、その格好、と昌浩の姿を指さした彼女は、時代劇かなにかの撮影? と今度は反対方向へ首を傾げた。時代劇、やら、撮影、というものがなんなのか分からなかったが、とにかく違うっぽいことは何となく分かる。

「えっと、俺は陰陽師です」
「半人前で一応見習いの♂A陽師だろ」
「うるさいぞもっくん!」

 と、ようやく物の怪特有の高い声が少女の耳朶を打てば、彼女はふるりと唇を戦慄かせながら、「猫が喋った……猫じゃないけど…」と呟く。

「……陰陽師って、フィクションの中だけだと思ってた…」
「ふぃくしょん?」
「ええー、じゃあ私、時代遡った感じ?」

 やばぁ……と昌浩の声には答えないまま、彼女は口元を手で覆った。

「えっじゃあさっき言ってた都って……」
「平安京の事だ」
「わぁお」

 ふん、と鼻を鳴らしながら応えた物の怪の言葉に、少女の口からは「じゃあ、ここって平安時代なんじゃん」とまた訳の分からない言葉が零れ落ちた。
 同じ言語を使っているはずなのに、なんだか通じない感覚はやや落ち着かない気分にさせる。

「ええ〜、どうしよう…私どうやって家に帰ったら…?」

 そんなこと、俺に聞かれても。昌浩はすんでのところで言葉を飲み込むと、しばらく考えた後、至極嫌そうな顔で「うちの、じい様に、聞いてみる?」と彼女に問いかけた。

「じい様って?」
「安倍晴明だけど」
「へー、有名人じゃん」

 何年か前に映画もやってた気がするし、名前だけなら知ってる。と呟かれた言葉は、これといって特殊な感情――例えば畏怖だとか、尊敬だとか、そういった感情――は込められていなかった。

「じゃあ、あなたはお孫さんなの」

 ぐ、と渋面のまま、昌浩はひとつ頷いた。

「へー、大変だね」

 安倍晴明の名前だけ知っているといった彼女は、今まで昌浩が受け取ってきた『あの晴明の孫』と言う期待のような言葉は吐き出すことがなかった。
 少しだけ構えていた昌浩は、ぽかんとした後、慌てて首を左右に振ると「なんでもない」と首を傾げている彼女に応えた。

「そういえば、名前まだだったよね」

 俺は安倍昌浩、こっちは物の怪のもっくん。もっくん言うな、と不満を口にする物の怪の言葉は聞かなかった振りをして、昌浩は自分の名前と物の怪を紹介した。
 その言葉に、「昌浩くんと、もっくんね」と頷いた彼女は、胸元の赤い布に手を当てながら口を開いた。

「私は木之本 清香」

 よろしく、と口を動かした彼女はゆっくりと笑みを見せた。
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