裏僕小説その3
□九十九×夕月「狂愛」
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主を失った部屋はしんと静まり返り、一切の刻の流れを遮断していた。
主の喪失と共に自室としての機能も停止し、僅かな残り香だけがその者が居た証を残している。
蝶番が、ぎいっと軋んだ音を立て、一人の男が現れた。
皺の一つなく丁寧に整えられたベッドに腰掛け、どこを見るともなく窓の外を眺めている。
薄手のカーテンを穏やかな風が撫で、夕刻の柔らかな光が男の顔を照らす。
平素から感情を表に出すことのない彼から、一切の表情が抜け落ちた。
刃の様に強い光を宿していた眼光も、今はこの世の何も映していない虚ろな硝子玉の瞳に変化して、男がこの部屋の主と出逢う前の姿に戻っていた。
どれ位そうしていたのか、彼が身じろぎひとつせずにいると、か細い女性の声で「ルカ…」と呼ぶ声がした。
呼びかけても返事が返って来ない事を理解している彼女は、力無い足取りで男の許に歩み、少しの距離を取ってベッドの端に腰掛けた。
「…これね、九十九の引き出しから出てきたの」
彼女は胸の中に大切に抱えていた一通の封筒を、男の隣にすべらせた。
「中身は見ていないわ。あなたに渡そうと思って…」
男はゆっくりと首を傾け、ベッドに置かれた封筒を見つめる。
「…不思議よね。世界ってこんなに静かだったかしら。このお部屋は、あたし達を歓迎していないみたい…」
主の姿が染みついた空間は、まるで他人が入り込むことを拒んでいる様だ。
彼女は男の横顔を見つめ、何かを堪える様に顔を歪ませた。
一向に封筒を受け取ろうとしない男の手を取り、彼女は封筒を握らせた。
「…もう行くわね。これでお別れだけど…さようなら。そして今まで…ごめんなさい」
彼女は男に深く頭を下げ、部屋から出て行った。
一人取り残された男は、やがてのろのろとした動作で封筒を開く。
一枚の便箋に書かれた丁寧で清らかな文字は、確かに彼が存在していた頃の証を残している。
まだ、彼が傍に居る気がしてならない。