裏僕小説その3
□冷呀×奏多「光と闇の詩」
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「…やめ…ろ…っ!」
躯を蝕むのは自分自身だった。どんなに足掻いても逃れられず、あれは僕を底知れぬ無限地獄に叩き落とす。
「その躯に、魂に刻み付けろ。人間は愚かで、傲慢で、卑小で、矮小で醜い。お前も解っているだろう。この世界にはなんの未練もないと」
冷たい腕が手首を掴む。昏く歪んだ唇が、細胞のひとつひとつを侵食する。
突き立てられるのは、激しい憎悪と孤独な哀しみだ。
「…苦しい…もうやめてくれ…」
熱い楔が躯を穿つ。内臓がせり上がりそうな圧迫感が襲う。
涙を流せば、あれも涙を流す。だが向けられるのは、昏い嗤いと犯される痛みだ。
「今生の生を捨て、私を取り込め。お前の味方は誰もいない。助けを請う者もいない。…お前は永劫に続く氷鉄の鎖に縛られる」
あれが誰か、自分自身が一番よく知っている。
永い刻を独りで生きる、過去に繋がれた亡霊だ。
だが、手を差し伸べるのは僕じゃない。
あれの魂を救えるのは僕じゃない。
「……可哀想だ…」
腕を伸ばして貌に触れる。この世の何も映していないのは、あれに視る気が無いからだ。
「…厭わしい…。人に生まれたばかりに…お前に神の奇瑞は不要だ。己の宿業を知り、戦の輪廻に呑まれる。…もうすぐだ。お前は消える…私の中で…」
「…奏多…さん」
聴き慣れた温かな声が、深い夢の底から救い出してくれた。
眼の前の彼には光が在った。今にも泣き出しそうな顔で、僕をこの世に繋ぎ止めてくれている。
冷水を浴び続けた様に凍えきった体に、温かな血流が脈々と注がれていく。
どうやら彼の手が、人の熱を分け与えてくれるらしい。
「ごめん、またうなされてたのかな。…心配かけたね」
いつだって、僕を悪夢から救い出してくれるのは彼の存在だ。
昔は立場が逆だった。近頃は毎夜、彼を起こして同じ顔をさせてしまう。
「大丈夫ですか」
細い両腕が体を包み込んだ。彼はその精一杯の愛情で、僕を癒してくれる。
「…きみは人間が好き?」
「…はい…」
そうだよね。きみは何があっても絶対に人を見捨てない。
人が好きだから、自分が傷ついても愛することが出来る。
彼に出逢って、僕は生きる喜びを知った。
たったひとりのために生きていくことが、僕の希望で全てだった。
彼が笑ってくれるから、「大切」や「愛情」の意味を理解することが出来た。
「人は温かいです。大切で、優しくて、幸せで嬉しい。切なくて、辛くて、悲しい時もあるけど…愛しいと思えるから」
僕はきみを渇望していた。
どんなに想っても、手を伸ばしても、僕は彼の光に触れられない。
「…汗びっしょりだね。シャワー浴びてくるよ」
離れていく温もりが、唯一繋がっていた絆を断ち切られていくようだ。
熱い湯をいくら浴びても、冷え切った躯は温まらない。
躯を犯したあれの感触が張り付いて、染み込んでいる。
曇った鏡を覗けば、自分と同じ貌をした男がこちらを見つめていた。
鏡の中の虚像は昏い双眸をひたすらにこちらに向けている。
「全て忘却しろ」
何度も何度も、あれは呪詛の様に忌む言葉を囁いて、意識の隅々まで支配する。
指を伸ばしてあれに触れる。虚像を通してあれに触れ、口許を上げれば同じ様に嗤いかける。
温かな光を照らす彼を思い浮かべれば、あれの亡霊はいつも一瞬だけ消える。
だけど、それももう限界だ。僕はきっと、深い闇に取り込まれてしまうから。
…もう一度、あの頃に戻れるのなら、僕はどんなに幸せだろう。
大好きだったあの日々に還ることが出来るなら、僕はもうなにも望まないのに。
刻は残酷だ。みんな僕を置き去りにして、どこか遠くへ行ってしまう。
…まるで水の底にいるようだ。
この悪夢は、一体いつになったら覚めるのだろうか。