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□2万打記念小説
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その空間で、その人物は手にしたヘッドホンを握りしめた。怒りに任せて握りしめたそれはベキリと嫌な音を立てたが、今はそんな事些細なことである。

自身がその少女に出会ったのはほんの偶然出会った。偶然にも乗ったバスに座っていた彼女は、自分のすぐ後に乗ってきた老婆に当たり前のように席を譲っていた。近くを横切った自分はその何気ない行動に感心し、次の瞬間には少女の優し気な瞳の虜となっていた。

―――ああ。これこそが天の采配か―――。


特に宗教などには入っていない自分がそう思ったほど、少女の瞳は魅惑的であった。しかしながら、年齢も性別も異なる、偶然出会った少女との接点など皆無である。このまま彼女は目的の場所についたなら、自分から離れ、出会うことは無いであろう。それは、その人物にとってもはや身を裂かれるような恐怖であった。それくらい少女の瞳に囚われていたのである。

(関われないのなら、せめて――――。)

そう思った、その人物の手には、一台のスマートフォンがあった。スマートフォンに裏面に付属していた黒いカメラが、鈍く光っていた。



           *


夕暮れの中、その男の前を一人の少女が歩いている。少女は濃紺に薔薇が描かれた浴衣を着ており、彼女が歩くたびにカラン、コロンと下駄がなっている。夏祭りにも行きそうな装いであるが、これが彼女の普段着であることを、ここ1か月ほどの観察で男は理解していた。彼女の帯は紅く、帯には簪が帯飾りの様につけられている。黒い髪は帯に付けられている簪と似たような簪でまとめられており、少女らしい白く細い首が惜しげもなく晒されていた。

(ああ、なんて綺麗なんだろう―――)

男はほうっと感嘆の息を漏らした。だが、それも今日聞いたとある男の声が再び頭をよぎり、その感動を打ち消す。
―――目の前の彼女には魔の手が忍び寄っている―――。
その事に、男が気が付いたのは先ほどの電話だった。それはあまり使われることのない少女の携帯電話が使われたことで男は知ることができた。
少女は自分とは異なり、まだ、学生なのだろう。彼女の通う学校は解らないが―――というよりも何度か彼女の部屋に防犯の確認に入ろうとしたが、叶わなかったため、入れなかったのだが―――多くの学校は共学だ。その中の身の程知らずの誰かが彼女にちょっかいをかけたのは想像に難くはない。あの瞳を自分のものにしようとする人間が自分の他にもいたことに怒りと、彼女の多くを知っている自分の優越感ともいえる感情が心を占めたが、彼女の瞳が向けられるのは自分だけでいい。彼女との逢瀬も何度かあったことだし、今ならば、彼女を自分のものに出来るであろうという考えが男の脳裏に浮かび、彼女を魔の手から救うべく、男は少女の後を追っていたのだった。


・・・不意に、目の前の少女が立ち止った。少女はやや訝し気に空を見上げ、きょろりと左右を見ている。その表情は酷く戸惑っているようで、初めて見る少女の表情に男は歓喜と、ここ数日で慣れたカメラを向ける動作に移ろうとした。だが―――。

(これは、好機なのではないか)

幸い、人通りは無いし、少女を騒ぎにせずに安全な場所に連れていくのは今しかないだろう。そう考えた男は少女に近づき――――。


「若い女におさわりは禁止だぜ。おっさん。」


笑いを含んだその声を聴いた途端、男の視界がぐるりと回った。回った先にはドスンという衝撃が加わり、自身を驚いたように見やる愛しい少女が逆さまに見える。そして―――

「・・・。この痴れ者が。」

冷たさを感じる整った容姿をした少年がその切れ長の眼に絶対零度の色を宿し、怒気を含んだ声で、男を拘束していた。



          *

「神崎。変われ。」

自分の腕を捻り上げた少年が少年とともに現れた金髪の女に言う。金髪の女は特に拒否することなく「へいへい。」と軽い調子で応じ、女とは思えないほどの力で拘束してくる。その拘束力は凄まじく、もがこうとする動きすら取れないほどであった。痛みのあまり目に浮かんだ生理的な涙の向こうで、先ほどの少年が愛しい少女に近づいたのが分かった。驚きのあまり、目を白黒させている少女に安堵の表情を浮かべる少年が、少女の電話の相手であることが察せられる。何とか少女をこの恋敵とも言える人物から話そうともがくが、「はいはい。おとなしくしてろよー。」という軽い声が、男の抵抗を無かったものにしていた。

「・・・あの・・・これは一体・・・?」

愛しい少女が困惑した瞳を男に向けた。奇しくもそれが少女が初めて男に向けた視線であったが、男には兎に角あの少年から少女を離さねばという焦りが、本来なら感動すらしたでろう場面を認識できなくしていた。
そんな男を、少年は冷ややかに見やりながら、そっと男から少女を隠すように体をずらす。そして、屈んだかと思うと、少女を横抱きに抱え上げた。

「―――っつ。どうしたんですか?」

少女は驚いたように声を上げた。しかし、特に抵抗している様子はなく、少年にされるがまままになっている。そこに、少女と少年が浅からぬ関係にあることが見て取れて、男は衝撃と共に口から言葉にならない叫びが上がる。そんな男に背を向け、少年は少女の耳に口を寄せ「後で話すから。今はここを離れるぞ。」と呟き、すこしだけことらを向きながら「神崎。あとは頼んだぞ。」と言い、歩き出した。見せつけるような仕草と冷ややかな瞳に男の中で怒りが湧く。だが―――。

「へいへい。任せなよ。少年。」

そう答えた、金髪の女の―――まるで獲物を見つけたような、絶対的な強者の声色が男を本能的にすくみ上らせ、怒りを鎮静させた。


「さーてーと。それじゃあ、じっくり話を聞こうか?ストーカーさん。」



女が凶悪に笑った。
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