ヘウン


□珈琲ゼリーの誘惑
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 ヒョクチェは迷った末に、仕事終わりの深夜になってから彼女の待っているバーへと足を運んだ。常であればいくら業界関係者とはいっても、女性と二人きりで個人的に会うだなんてことはないというのに、顔も見たくないと思っていた呼び出しに応じたのは結局のところドンへへの苛立ちが治まっていなかったせいなのか、はたまた。 


扉を開けるとカラン、とぶら下がっていたベルが軽やかに音を立てる。音を聞いてすぐに出迎えた店員は、ヒョクチェの顔を見るなり心得たように奥でお待ちです、と潜めた声で告げ、丁寧に腰を折ってから案内した。 

彼女は一番奥、丁度死角になる壁際の席で一足早くグラスを傾けていた。 


「ここ、私の行きつけなのよ」 


なるほど、美しい女性には美しい場所が映えるな、と思った。
このバーの高級ながらもレトロな雰囲気は、彼女によく似合っていた。


「何を飲みます?」 
『...おすすめを、』


口を開くのが酷く重苦しい。
一言返事をして黙ってしまうと、彼女は店員に目配せをして、店員はかしこまりました、と一言頭を下げた。
はたして、どんなものが出てくるのか。


「...喧嘩でも、した?」
『...、』


優しい口調でヒョクチェに語りかけてきた彼女は、年上らしい雰囲気でグラスを傾けた。
彼女は多分、ヒョクチェとドンへの関係を知っている。
だれと、と聞けないのは、彼女とのドンへの関係が見えてしまうのが怖いからだ。


「...ドンへ君の出てるドラマ、まだ情報公開されてないんですけど、次のゲスト私なんです」
『...へぇ、』
「今日は現場の下見くらいのつもりで行ったんですけど、随分と重々しい雰囲気でしたから、彼。」
『...そうですか』
「あ、勘違いなさらないでください?私、彼とは何もありませんのよ」
『...、』


彼女の言葉に少々驚いて、ヒョクチェは彼女の顔をみた。てっきりここに誘ったのは、宣戦布告でもされるのかと思った。
ヒョクチェの驚いた顔を見てクス、と笑った彼女は、その後少しだけ遠くを見るような目をして、続けた。


「...ただ、泣かされてる子は、何人か見てきたので」


彼女が言葉を発したのは、ヒョクチェの目の前にカウンターの向こうからグラスがコト、と置かれたのと同時だった。

出てきたショートタイプのカクテルには、コーヒーの香りがする液体が注ぎ込まれていた。


「...あら、ベルベット・ハンマー」


初めてみたそのカクテルに、何も言わずに口をつける。コーヒーの香りとクリームの濃厚さと、ほのかなブランデー。ホワイトキュラソーにコーヒーリキュールを感じるそれは、敵度に甘くて飲みやすかった。


「...コーヒーゼリーみたいなカクテルでしょ」
『...はい、』


彼女を見ずに呟いたヒョクチェは、言葉にどびきりの自嘲を込めた。


『...お子様な俺には、ぴったりですね』
「....。」


彼女は少し押し黙って、流れた沈黙も気にしない様子で髪をかき上げた。

キャリアも長く美しい女性だが、モデル上がりでもアイドル上がりでもない彼女は、自身の実力一本で地位を築き上げてきた。きっと、辛いことも多くあったのだろう。

だからか分からないが、堂々とした彼女の姿は、どこか信用できた。


『...ドンへは、そんなに見境なかったですか』


この人がドンへと何も無かったかどうかは実のところは分からないが、今のカクテルの相手としては勿体無いくらいの相手だ。この状況を楽しもうと思えるくらいには、脳は正常さを取り持としていた。


「...彼は、悪気はなかったんでしょうね」
『と、言うと?』
「誘われた。だから食事に行った。寝た。次の日はまた別の人から誘われたら。食事に行って、その繰り返し」
『...ああ、はい、』
「誘われた。だから、断らなかった。ただ彼は、断らなかっただけで、誰も受け入れもしなかった。」
『...すみません、人のことに考えが及ばない奴で』
「まあそうね。でも、こう言っちゃなんだけど、勘違いした相手も相手よ。Super Juniorのドンへに会えた、だから勇気を持って話しかけたら自分に心を許してくれた、なんて、思い上がりよ。」
『...厳しい、ですね』
「この世界に長くいるとね。そりゃ分かるわよ。...でもね、この世界に入ったばっかりで右も左も分からない、芸能人を見て浮かれてるような子には、通じない常識よ」
『....はい。』
「だからって、ドンへ君が悪くない訳じゃないけどね」
『...そうですね』


彼女は残りの少なくなったグラスを傾けて、その中に入っていたウイスキーをぐいっと自分の喉に流し込んだ。
そしてコト、とカウンターテーブルにグラスを置くと、ヒョクチェに静かに問うた。


「四六時中彼と一緒にいて、息が詰まらない?」


ヒョクチェを見ながら言った彼女の言葉に、その目に、どんな感情が込められていたのか、ヒョクチェには分からなかった。単純な疑問か、同意を求めているのか、否定してほしいのか、はたまた別のなにかか。
だからこそヒョクチェは、反射的には、かつはっきりとした声で答えた。


『いいえ』


彼女は少しだけ驚いたように目を見開いた。


『...俺には、もう何も無いんです。持ってたもの全て、...ドンへに、あげたから。...だから、息が詰まるどころか、ドンへと居なきゃ、...呼吸もできないんです。』


見返りなんて、いらない。
誰かの代わりで、いい。
一番じゃなくても、いい。
だから、おれの手の中から溢れ出す、この想いだけは、受けとって。
返してくれなくていいから、おねがい。


『...そのはずなのに、俺は、独占してしまいたいと思ってしまった、ドンへを。...一番に、唯一にして欲しいと、思ってしまった』


結局誰だったかわからずじまいの、ドンへが呟いた名前。
その誰ともしれぬ人に、どうしようも無く嫉妬してしまった。




「...そう」


でも、ちゃんと「いいえ」って言えるじゃない。
なら、あなたがなやむ必要なんて無いんじゃない?

彼女は目を細めながら、優しく笑って言った。


「彼はきっと、あなたに独占してほしいのだと思うけど」
『...そんなこと、ありますかね』
「あるわよ。現に、今は全然浮いた噂がないじゃない」


彼女の言葉に昨晩の喧嘩が思い出されて、はは、とごまかし笑いをした。
彼女はそんなにヒョクチェを見て、思い出したように付け加えた。


「...ベルベット・ハンマーのカクテル言葉、ご存知?」
『...カクテル言葉、ですか?』
「そ。一途なあなたにぴったりな言葉よ。」


彼女の笑顔は優しかった。
その優しさと、バーの窓から見えた月夜の美しさは、ヒョクチェの頑固だった心を溶かすようだった。




































*****












彼女はまだ一人で飲むらしく、ヒョクチェはひとり席を後にした。

結局彼女は忙しい合間の時間をなんど自分なんかのために割いてくれたのか、一体何を言いたかったのか釈然としない気持ちのままバーのドアを押し開いて、ヒョクチェは驚いた。 

店の前に停めたバイクに寄り掛かって、ドンへがこちらを睨み付けている。 



「ドンヘ...」 


どうしてここにいるのが知れたのだろう、マネージャーあたりが言ったのだろうか。

ドラマ撮影で疲れて帰ってきたのに、約束したはずのヒョクチェが居なくて焦ったのか、それとも昨晩の機嫌取りか。
こんな時間までほっつき歩いてドンへ自身に迎えにこさせて、怒られるかと身構えたが、しかしながらドンへは一つ小さなため息をついただけで、ん、とヘルメットをヒョクチェに押し付けた。
受け取った瞬間に指の先が冷たい皮膚を掠め、一体どれだけの間ここで待っていたのかを考えると、少し驚く。反射的に口から出そうとした謝罪の言葉を彼は嫌って、一言で遮った。



「帰ろ」 


怖い訳ではないのに、うん、と返した声は震えて耳に聞こえる。大人しくバイクの後ろに跨り、腹に腕を回せば、頬に触ったジャケットは氷のように冷たい。 
ドンへのマンションの部屋に戻るまでまた暫くの無言を覚悟していたが、バイクを降りるなりドンへが擦れた咳を一つして、苦虫を噛み潰したような顔をしながら言った。 



「まだ、怒ってる?」 


言葉だけを聞けば開き直っているようにも思えるだろう。けれど、何と言って切り出せば良いのか迷っているときにも彼はこんな言い方をする。
わかっているからこそ、意地悪のつもりで言ってやった。 


「...少し」 


この期に及んでまだ意地を張っている折れ。彼はどうしたら良いのか途方に暮れるような顔をしていた。気まずくなって下を向く。 


「でも、俺、ヒョクチェが怒ってても、迎えに行くから。何回でも。」

 
 視界の端に映っていた自分の右手を、ドンへの手が握った。 


「...ごめんなさい、あれは本当に、ちょっと前のドラマの中での相手役の名前で、...ううんごめん、もう二度と無いようにするから、...許して、しか出てこないけど、」
『...』


ドンへの言葉は妙に弱々しく、いつもの能天気さは無かった。


「...ヒョクチェがいないと、俺生きてけない」
『....。』
「いつもご飯作ってくれてありがとう、家事も、でも、...もう何もしなくていいから、...嫌いにならないで、」
『....。』
「俺には、ヒョクチェだけだから、他に何もいらないから、...信じて、て言っても信じられないかも知れないけど、...おねがい」


下を向いたまま喋るドンへの声は終始心細いものだった。
でも、一生懸命伝えようとしていることは、握った手から伝わってきた。
これが本当かどうかなんて分からないけど、でも。

信じて見ようかな、なんて思ってしまう手前、やはり自分はドンへに甘いと思う。



『帰ろう?』


ドンへの顔を見ながらそう言うと、ドンへは顔を挙げないまま、ん、とだけ返事をした。


苛ついていたのは、お前だけだよと言う口で他の名前を呼んだから。
嬉しいのは、迎えに来てくれたこと、何度でも迎えに来てくれること。
悲しいのは、こんなことは今まで何度もあったしこの先も何度も繰り返すのだろうこと、何度だって許してしまうだろうこと。
確かなのは、愛想を尽かされたとしても自分はドンへから絶対に離れられないということ。 



「どうして、迎えに来てくれたの」 


部屋に戻ってから聞いてみた。
別に謝りたいなら、帰ってきてからで良いじゃないか、と。


「理由なんているの?」 


そうしたかったからした、とまるで子どものような裏表のない澄んだ返答があった。
それは俄かに胸を揺らし、落胆ではない透明な溜息が唇を濡らしていく。愛されている、と思った。 

自分が特別だなんて思い上がりは、しないから。
明日からは、ちゃんの身の程をわきまえるから。


...だから今日だけは、勘違いしてても、いいですか。

















































































ベルベット・ハンマーのカクテル言葉、ご存知?

...カクテル言葉、ですか?

...そ。一途なあなたにぴったりな言葉よ。




ーーーーー「今宵も、あなたを想います。」







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