ヘウン
□コトバのチカラ
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ずっとずっと、世界はそういうもんだと思っていた。
少女漫画みたいな恋愛は本の中だけで、自分には関係ない。そう思っていた。
だけど。
見ているだけで良かった。会釈を返してくれるだけで良かった。
それはもう遠い昔。
こっちを見てくれた。話せた。笑いかけてくれた。
その積み重ねが自分を贅沢にしていく。
俺を見つけて。話しかけて。俺だけにその笑顔を見せて。
これは俺だけが知っている俺のわがまま。
手には入らない。でも少しだけと思いながらその日も俺はヒョクチェと居酒屋の座敷に座っていた。
別に二人きりだったわけじゃない。その大きな忘年会は事務所の太っ腹なお偉いさんが開いた、かなり開けた大きなものだった。練習生をメインに声がかけられたものではあるが、既にデビューして行った懐かしい顔もチラホラといた。
ずっと片想いしていたヒョクチェがたまたま隣の席にいて、挨拶を交わす程度だった関係が、もしかして変化するかもしれないと思った、ヒョクチェが一生懸命話すのが可愛くて、その顔に見とれていたらつい言っていることを聞き逃してしまったので俺は「ん?」と聞き返す。
するとヒョクチェが一瞬動きを止め目を何度かぱちくりさせた。
俺もヒョクチェも共に18歳くらいだった当時、ヒョクチェには立派な成人男性らしい筋肉もついていたが可愛いものは可愛い。その可愛い人がハッキリと言った。
「好き、」
ヒョクチェの突然の告白に俺の心拍は一気に上がり頭がフル回転し出す。周りは未成年のくせに年末くらい、とみんな酒が入っていて、俺たち2人の話なんて全く聞いていなかった。俺は判断を下す。これは本気だ。
「うん」
反射的に逃してなるものかと言葉を続ける。
「じゃあ付き合う?」
「えっ!?」
「え?違うの?」
「いや!!違わない!!」
ホッと胸をなで下ろすと俺はヒョクチェに拳を突き出した。ヒョクチェが恐る恐る拳を当ててくる。
「じゃあ、よろしく」
俺は目一杯幸せで、たぶん余裕なんてものはなかったのだ。
付き合うって何すればいいんだ。
情けないと自分でも思うけどレッスンに明け暮れていたせいで何をしたら相手が喜ぶか分からない。彼女がいた事はあるが、大して構ってもやれず、気付いたら振られていた。そんなこと、今回はあってはならない。とにかくヒョクチェにはうんと優しくして大事にしたい。
ヒョクチェは知らないだろうけど、ヒョクチェは練習生内でかなり人気がある。あの物腰と明るさと笑顔だ。
自主練のあと疲れて帰る時、夜遅くにあの笑顔で「いつも遅くまで大変だね、お疲れ様」なんて言われれば誰だって悪い気はしない。ヒョクチェだってその時間まで残っていて練習していたのに、他人の気遣いまでできるなんて。
またにヒョクチェより遅く残っている時、最後に帰ろうと荷物を見ると、暖かい飲料が置かれていた時の嬉しさと言ったら無い。ほかの女子みたいに一緒にアドレスを置いていったりしない所がまたぐっとくる。本当に良心だけでできている人だ。
そもそも俺がヒョクチェを意識し始めたのは、その「お疲れ様」がきっかけだ。
ほかの練習生たちがデビューしたり道を諦めて事務所を辞めていったりしてひとり、またひとりと仲間がいなくなっていく。そんな状況が若かった俺を焦らせ、練習に残る日々は多く、時間は遅くなっていく。上手くいかなくて、そんな自分にも周りにもイライラしていた、そんな時。
「お疲れ様」
そう言って差し出されたココアに、満面の笑顔。自販機で当たっちゃったから、あげる。なんて。
そんなのは嘘か本当か分からないけど、俺は何も言えずに素直にそれを受け取った。ありがとうの言葉はひどく小さく、ヒョクチェに聞こえていたのかは分からない。でもヒョクチェは満足そうに笑っていなくなった。
それだけ。ただそれだけの事だけど、俺の心はヒョクチェに鷲掴みにされた。
あの笑顔に、あの「お疲れ様」の言葉に、声に。
さて、ここで今俺が頭を悩ませている問題に戻る。
付き合うって何をすればいいんだ。
トイレを出た所にある自販機コーナーの裏で練習生の女子の会話が聞こえてきたので、そこには入らずに何とは無しに耳を傾けてみる。
どうやら恋愛についての話らしい。
不貞腐れたような声が聞こえる。
「なんかさ、大事にされてない気がして」
「どうしたの?」
「付き合ってすぐ、よ。その日にセックス。それ目当てだったの?ってくらい。会う度にヤるし。なんかな〜って感じ!!」
「あーそれは嫌かも」
「しかも、俺以外の人間と会うな〜とか言うんだよ?流石に男と二人きりはまずいけど、それ以外なら良くない!?自分もそうするからとか言ってさ、ある程度許せよな〜。」
「束縛系か!うざいわぁ」
なるほど。
女子達はまだあーだこーだと話しているが俺は有益な情報が聞けた事にこっそり感謝する。
よし、接触は控えよう。
触りたいけど我慢だ。触ったら我慢できる自信がないので俺はなるべくヒョクチェに触らないようにしようと決意する。
ある時、帰り道でヒョクチェの手とぶつかってしまった。ぶつかった箇所が妙に熱くて出来ることならそのままその手を握りしめたい衝動に駆られるが我慢だ。
「あ、ごめんね」
己を戒める為に慌ててポケットに手を突っ込んだらヒョクチェはなんとも言えない顔をしていた。手、冷たかったかな。
あんまり束縛もしちゃいけない。ヒョクチェは可愛いから男でも女でもあんまり二人きりにはなって欲しくないけど、でもヒョクチェは俺に気を使ってそうするだろう。なら、俺もほかの人と飲みに行けばいい。
もちろん二人きりになんてならないけど。それで、ヒョクチェも俺に気兼ねなく友達と食事ができるだろう。
気が付けばヒョクチェと付き合い始めて3ヶ月。最近、ヒョクチェの元気がない。食事に誘えば「行く!」って笑ってくれてダンスの話とかをするけど何かを言いかけては止める、の繰り返しだ。
別れ話かな、と不安がよぎりつい先延ばしにしてしまっている。
でもいい加減、ヒョクチェの言いたい事を言わせてあげなきゃなと自販機コーナーで考えていたら前にレッスンで一緒だった女の子が声を掛けてきた。
「ドンヘさん!!無事に弟、退院しました!」
「ああ、もう回復したんだ、良かった!」
「ドンヘさんには本当にお世話になりまして、ありがとうございました!!」
彼女は以前、たまたま俺が街中を歩いている時に交通事故に遭遇した時、その被害者だった少年の姉だった。
あまり周囲人がいなかったこともあり、俺が救急車に乗って付き添い、病院まで行った。
その後に駆けつけてきた少女は俺は見覚えはなかったがどうやら同じSMEの練習生だったようで、涙を流しながら礼を言われた。また普段は海外にいるらしい兄弟の親も急遽帰国して、お礼させてくれと聞かず、その両親が抱えている系列の個室の料理屋(高級)でその家族と俺を交えて食事をご馳走になった。
その弟が、ついに退院したらしい。
俺がすぐに救急車を呼んだこと、またその場所が人気は少ないが病院の近くだった事もあり、弟くんの処置はすぐに行え、しばらく入院してリハビリすれば今まで同様の生活ができるだろう、という医師の診断は正しくその通りで、退院した彼はもう松葉杖を付けば普通に歩けるらしい。
順調に行けばあと1ヶ月で松葉杖も外れる、と彼女は心からの感謝の表情で俺に話してくれた。
「ん、良かったね。じゃ、俺まだ残って練習するから」
「あ!失礼しました!!本当にお世話になりました。ありがとうございました !!」
練習、と言いつつ、俺が取り出したのはスマホだ。もちろん、3ヶ月以降の付き合い方について調べなくてはならないからだ。まぁ、振られるかもだけど。
しかしまたしても邪魔が入る。
「なあ!ドンヘはどう思う??」
同期の練習生2人が俺の襟首を掴み自分の横に座らせた。
「何が?」
「シノのことだよ!!」
「...て、急に言われても。何?」
「アイツさ、俺の後輩の女の子と付き合い出しててさ。その後輩がシノが全然手を出して来ないから俺に相談してきたの。で、シノになんで?って聞いたら」
「嫌いじゃないから付き合ってるけど、手を出したらさらにめんどくさくなりそうで、だって!!」
見事な連携プレーだけど、それより。
「まったく意味分かんないんだけど。好きだから付き合うんじゃないの?」
オレの言葉に友人2人は顔を見合わせ何故かキョトンとした顔をした。
「ドンヘって、案外いい奴だよな」
「ああ。とにかくシノは一回締めとこ」
「ドンヘは付き合う子、不安にさせなそーだわ」
「そんだけストレートに愛情伝えてたらねえ」
相変わらず見事な連携プレーだが、俺は大事なことを聞いた気がする。
ヒョクチェに会わなきゃ。
俺はヒョクチェを探しに走り出した。
ヒョクチェの涙を見て痛感する。
やっぱり。
俺はなんてバカなんだ。
ヒョクチェを不安にさせるなんて。
浮かれていたんだ、好きだなんて言ってもらえて。
ごめんね、好きだよ。
俺は情けない気持ちのままヒョクチェに本音を伝える。
「情けない。今も、ヒョクチェが何を考えてるか分からない」
ヒョクチェは鼻を赤くしてポツリと呟いた。
「...ドンヘがドン引きするような事考えてる...」
「どんな?」
聞かせてほしい。聞いてあげなくてごめんね。我慢しててくれて、ありがとう。
「もっと近くにいきたいって...」
「いいよ」
ああ、俺と同じなんだな。
「おいで」
抱き締めたヒョクチェの身体はひょろりと細いのに温かい。
ずっとずっとこうしたかった。ヒョクチェの言いたいことやしたいことを、もっと知りたいし、したい。
俺は馬鹿だから、お願い。教えて。ね、ヒョク。
その体温、鼓動が俺を満たしながらさらに求めさせる。キスしたいと伝えるとヒョクチェがすっと唇を寄せてきたからもうダメだった。
焦る気持ちのまま頭を掴んで無遠慮にヒョクチェの口腔内に侵入する。搦めとるように舌を吸うとヒョクチェから力が抜けた。
初めてのキスは情けなくもガッツいてしまい俺は名残惜しい気持ちのままそっと唇を離したが、熱の残る瞳で見られ理性のタガが外れそうになり片手で目を覆う。
「あんまり煽らないで...」
「へ?」
「そんな潤んだ目で見られたら、理性保てません。俺ね、優しくしたいの」
ヒョクチェは小さく首を傾げ不思議そうな顔をする。ああ、可愛い。
「ドンヘは優しいよ。あと俺、ドンヘになら何されても平気」
ーーーこれはヒョクチェが悪いよね。
存分に言葉と態度で甘やかした後、考えるより先に口が動くのはヒョクチェの悪いクセだよ、好きだけどと伝えたものの、俺の愛で放心状態のヒョクチェには聞こえてなかったかもしれない。
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