ヘウン


□珈琲ゼリーの誘惑
1ページ/2ページ









昨晩から降っていた雨のせいでひんやりとした空気が部屋の隅に溜まっている。 


その肌寒さが、泣いたせいで重い頭に痛みを誘った。
もう少し寝ていたいが、そうもいかない。同じベッドで横になっているドンへはまだこちらに背中を向けて寝息を立てていた。
今は近くにいたくないという気持ちをあさげの支度をする為という立派な大義名分の下に隠して、ヒョクチェはひっそりと寝室を抜け出す。 


昨日は少し、喧嘩をした。 


彼が他女性の名前でヒョクチェを呼んだのが、ベッドの上でなかったら、裸になった後でなかったら、多分自分はこんなに意固地にはならなかった。

同じグループのメンバーであるドンへは男前で、そりゃあ大層モテる。男にも、女にもだ。そしてドンへは、今まで恐ろしい数の人々と浮き名を流してきた。
人懐っこくて性格も良くて、いつだって大勢に取り巻かれている人だから、名前を呼び間違えることだって、そのくらいはある。それはわかっているのだ。けれども、わかっていても、それ以上にはヒョクチェは寛容になれなかった。 

ドンへが両刀なのは実は芸能界の中では有名な話で、そんな訳で仲が良すぎるとファンに言われ続けてきたヒョクチェとの関係を知っている者も、この業界内には多い。

ただ、いかんせんドンへはモテる。少し前まで来る者は拒まずだったドンへを知っているヒョクチェだからこそ、自分がドンへの唯一だと思い上がってはいない。ただ、それでも。

自分の知らないところで誰かをその腕に抱いたのか。腰の辺りを触りながら、あいつには黙っているから、とかそんなことを笑って言ったかも知れない。一気に暗い想像が頭の中に広がって表情と言葉を凍り付かせ、慌てて機嫌を取ろうとするドンへに腹立たしさすら感じた。 

宥めて賺して、いつものように身体を茹だらせて、そうやってうやむやに誤魔化してしまおうとするのが嫌だった。強情に絆されまいとするヒョクチェにドンへも苛立って、その夜の行為は労わりなんてこれっぽっちもないままおざなりに終わった。 

咽が渇いている。 

着替えの前に台所に寄って蛇口を捻った。グラスの内側についた気泡が窓ガラスを濡らす雨粒に似ている、痛む頭でそんなささやかなことに半分程水を飲んだ後で気が付く。

雨の降るソウルの空はこの時期特有のどんよりとした冷たい灰色だ。
鈍い痛みは暫く引いてくれそうになくて、薬に頼るのは気が進まないけれど、ヒョクチェは引き出しから探し当てた鎮痛剤を二錠、残りの水で空っぽの胃に流し込む。 

咽が潤うと波立っていた気持ちもほんの僅かに落ち着いて、靄の掛かっていた思考も少しだけまともに動き始めた。与えられた部屋に戻り着替えて顔を洗ってしまう。
鏡を見れば、瞼は辛うじて腫れが引いていたが、眼は真っ赤に充血して酷いものだった。 

今日はカメラに映る仕事がないことが幸いだった。コンサートの打ち合わせとラジオの収録だけだ。寝ているドンへは、確か今日もドラマの撮影だ。ただ、起こすのはまだ後で良いだろう。なんなら少しだけなら仮眠しても大丈夫だ。あまり使われていないベッドのシーツは肌に冷たかったが、今の自分にはとても魅力的だった。 

横になった途端に心地良い眠気が爪先の方から静かに押し寄せて来て、身体が睡眠を欲していることを自覚する。

瞼が重い。沈んでいくような感覚。

 
気が付けばとろとろと眠ってしまっていたようだ。
ぴた、ぴた。と、蛇口の水が滴る音が妙に鮮明に耳に聞こえて、深いまどろみの中から意識を持ち上げた。時計を見れば三十分以上が経っている。
どんよりした気分は相変わらずで、まあ頭痛が鎮まってくれているだけまだましなのだろう。 

そろそろ起こした方が良いかと寝室を覗いたら、いつの間にやら寝ていたはずのドンへはベッドにはおらず、寝間着がその辺りに無造作に脱ぎ捨てられているだけだった。 


「ドンへ....?」 


まさか、昨日の喧嘩前に聞いていた今日の出発時間にはまだなっていないはずだ。早めに出たのか、どこかへ行ってしまったのか、はたまた。
そんなに自分に会いたくなかったのか。顔を見るのも嫌だったのか。そう考えると、昨日の自分の意固地を後悔したくなってくる。
ああ、あさげを作ろうと思っていたのに、これじゃあ意味がない。ドンへが食べてくれないなら、自分一人のためにちゃんとしたご飯を作ることも面倒くさく感じている。どうして物音にも気付けなかったのか。やってしまった。

 寝室は相変わらずひんやりとしたままで、人の体温の名残はほんの僅かしかもう残ってはいない。

ふと、無性に悲しさと苛立ちとが空っぽの身体に込み上げた。
無意識に零した他の名前を二人の耳が拾った瞬間に流れた冷たい空気。無遠慮な宣告に似た脳髄を打たれたような衝撃。 

だれ。その女は、だれなの。なんでおれを組みしきながら、そんな女のなまえを呼ぶの。

口に出しさえしなかったが、そんなことを考えてしまったのだ。それなら、もう自分は面倒くさい女に他ならない。
ドンへは両刀だ。だから男の自分とこういった関係を持つのは、女みたいに妙な執着だとか、責任だとかを持たなくていいからかも知れない。なのに、なのに。

ヒョクチェは昨晩の自分の考えを思い返して頭を振った。ドンへは自分のことを大切だと言ってくれる。でも、自分はドンへの大切なものであっても、ドンへの唯一のものではない。それをしっかり自分に言い聞かせた上での関係だったはずだ。

ドンへが何一つ与えてくれないとしても、自分はドンへに全てを与えようと思った。これは自分の自己満足だ。だから、見返りなんていらない、と。

ただ、昨晩のことだけは許すことが出来なかった。すぐに言い訳を始めようとしたドンへに、更なる怒りが募った。
一番欲しくないものは、繕いもしない見え透いた下手な嘘だ。いつもは自分に愛を囁いてぐずぐずに甘やかす声と同じ声で、そんな残酷な虚偽を吐かないで欲しい。 

...考えても仕方ないことだとはわかっている。 

 多分、今日は会わないだろう。ドラマの間は忙しくて、ひとりじゃろくに食事もできないから、とせがまれて、いつもなら一泊だけのドンへの家に長期滞在が決まった。でも、こんな状態でこの家に居たくない。


『...仕事、』


行かなきゃ、と誰にも聞こえない呟きを漏らしたヒョクチェは、赤くなったままの目を無視してのろのろと準備を始めた。
もう、マネージャーが迎えに来る時間だ。






*****





『...あっ、』
「あら、お久しぶりです」


ヒョクチェが収録現場のスタジオが入っている建物の廊下を歩いていると、向こうからスタイルの良い女性が歩いてきた。同業者の年上の女優だった。...確か、ドンへとも共演経験のある。


『...ご無沙汰してます』
「...顔色悪いですけど、大丈夫?」


彼女は心配そうにヒョクチェの顔をのぞき込む。だがヒョクチェは、今彼女の顔を見たくなかった。...ドンへが昨晩ベッドで読んだ名前は、彼女の名前だ。

韓国は名前がよく被る。彼女の名前は韓国の女の子ではかなりメジャーな名前で、別に被っていてもなんの疑問も無いだろう。ドンへが読んだ名が、彼女を指していたという証拠はどこにもない。

...だから、こんな女々しい自分に、ヒョクチェは嫌気がさした。目の前にいる女性は、ドンへとベッドを共にしたかもしれない、なんていうほんの僅かな可能性にすら過敏になってしまう、自分に。


『...ちょっと、風邪気味、なんですかね、』
「....、」
『...すみません、失礼しますね』


彼女は相変わらず心配そうにヒョクチェをのぞき込んでいた。
本当にいい人だと思う。それなのに、彼女からしてみれば迷惑この上ない被害妄想だ。


「...あの、ウニョクさん、」
『はい?』
「...今日このあと、空いてますか?」


彼女の言葉をゆっくりと咀嚼して、理解して、ヒョクチェは目を丸くした。



『......え....?』



 






.
次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ