短篇集

□二人の世界に哀悼を
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「お、ここにいたのかよ猿比古」

屋上で一人本を読んでいる伏見の姿を見つけて、八田はそう声を掛ける。しかし相手からの反応はない。よく見ると音楽を聴いているようで、チラリとイヤホンのコードが見えた。自分の存在に気付いていない伏見の元へとずかずかと歩みを進め、彼が今まさに読んでいる本を取り上げる。

「!」

「うわ、またこんな小難しいの読んでんのかよ」

伏見は突然現れた八田の姿に一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに本を奪われたことに対して不機嫌そうに眉を顰める。伏見が不満を口にするより前に、八田はどかりと彼の隣に腰を下ろし口を開く。

「なに聞いてんだよ。片方かせ」

能天気にそう言って伏見の了承など待たずに片耳のイヤホンをふんだくる。うざったそうに八田を見る伏見の反応を気にも留めずに、左耳にイヤホンを付ける。

「なんだよ、またコレかよ」

「ちっ、文句言うなら聴くな」

「いやバカみてぇに明るい曲よりこっちのが落ち着く。…あ、この曲聞いたことある」

「…有名曲のピアノアレンジ」

「ふーん」

「…本」

「ん」

おとなしく本を伏見に渡し、八田はイヤホンから溢れる音に意識を集中させる。静かで体の奥にまで染みわたるような、そんな音。伏見は騒がしい曲が好きではないから、こういう曲を聴くことが多い。そしてそれを一緒になって聴く八田も、それが嫌いではなかった。騒々しい教室にいると息が詰まったが、こうして伏見と共に音楽を聴いているときは楽に息が出来た。伏見は読書を再開し、八田も何を喋るでもなくぼーと音楽に耳を傾ける。暫く辺りは静寂に包まれる。

ふと、何かを思い出したように伏見が沈黙を破る。

「そういや来週から中間だったな。お前勉強してんのか」

伏見は本の文字列に目を落としたまま、さして興味はなさそうにそう尋ねる。それを聞いて、伏見を探していた当初の目的を思い出した八田は身体を揺らす。

「あ…!い、いや、あの…そのことでオマエに頼みたいことがあるっつうか…」

八田はごにょごにょと言い辛そうに口をもごつかせる。それに対して、伏見は既に相手の言わんとしている事がわかっているようだ。それに気付かないまま、八田は意を決したように口を開く。

「え、英語と、数学と化学が…マジでもうどうしようもなくて…猿比古、頼む!勉強教えてくれ!!…あ、あと古典…」

現に、当たり前のように屋上でのんびりしている二人だが、彼ら以外の全校生徒は現在授業の真っ最中である。常人よりも飛びぬけて頭のいい伏見は良いとして、常人並、否、むしろその遥か下を行く学力しか備えていない八田が授業に出ていないというのは非常にまずい。むしろ、授業を真剣に聞いていてもちゃんと理解できるか怪しい。それ程に八田は勉強が大の苦手だった。

「まぁ、教えてやらないこともない」

馬鹿だの阿呆だのチビだの、その形のいい唇から罵倒の言葉が吐き出されるだろうと身構えていた八田は伏見の意外な一言に一瞬ぽかんとしたが、すぐにパァッと表情を明るくする。

「ほ、ほんとか!?」

「タダとは言ってねぇ」

しれっと条件付きであることを明かした伏見に、目に見えて八田の盛り上がった気分が急降下する。少し考えれば、伏見が人に勉強を教えるなんて面倒な事を慈善活動で行う訳がない。その上、教える相手は鶏ヨロシク数歩歩けば大体の事は記憶の彼方に葬られる頭を備えた八田である。伏見からすれば、その労力を考えれば多少の条件付きは当然である。

「タダじゃねぇって…マックでも奢ればいいのかよ?」

「んなもんいらねぇよ」

見当違いな八田の返答に舌打ちを一つ溢し、不機嫌な表情のまま伏見は八田の襟を掴むと自分の方へと引き寄せる。突然の事にされるがままの八田の唇に、伏見のそれが重ねられる。触れるだけの口付けを残して、伏見はすぐに八田から唇を離す。

「して。美咲から」

鼻がくっつきそうな程の至近距離でそう言われ、唯々固まっていた八田の頬が徐々に紅を帯びていき、耳まで真っ赤に染まっていく。

「なっ、ななななな、なにすんだよ…!!!」

「何って、キス」

「んなこたァわかってんだよ!!」

語尾を荒げながら、しかし動揺する内心を隠す事も出来ずあたふたと身体を捩らせる。それが可笑しなダンスでも踊っているようで、何とも滑稽である。

「で、すんの、しないの?まぁ、俺はどっちでも良いけど」

ぐ、と息を詰めながらも、はっきり言って八田には後がない。卒業できないなんてことになったら、親に合わせる顔もなければ、この隔離された退屈な空間に閉じ込められる期間が延びてしまう。それだけは、どうしても避けたい。胸の奥からせり上がる恥辱に心臓が高鳴る。それをどうにか抑え込み、拳を握りしめたまま八田は伏見の口元へと顔を寄せる。

「っ〜〜…」

ほんの一瞬、相手の唇に触れた己のそれをすぐに離し、顔が尋常じゃなく熱を帯びるのを感じながら八田は声を荒げる。

「し…したからな!!!これでベンキョー、見てくれんだろーな!!」

見ている方が可哀相だと感じてしまう程に余裕のない様子の八田に、伏見はあっけらかんとした口調で言い放つ。

「は、何言ってんだ」

「え?」

「今のは英語の分。あと数学、化学…と、古典もだったか?じゃあ、あと三回だな」

涼しい顔で衝撃の諸条件を明かした伏見に、暫く締まりなく口を開け呆けた後、八田の眉が吊り上る。

「てっ…!!!てめぇ〜〜〜…!!!!」

「ああ、舌入れるなら、あと一回で残りの科目全部見てやるよ」

ちろりと赤い舌を覗かせながらそんな事をのたまう伏見に、八田は再び耳まで真っ赤に染めてふるふると震える。

「ふっっっざけんなバカ猿!!!誰がするか!!!」

「ふーん、まぁ俺は別に良いけど。これで赤点確実だな」

「う…!!」

その後、腹をくくった八田が奮闘するも、普段は全部伏見からで全て受け身の八田は、如何せんそういう事に慣れていないためいざ覚悟を決めても身体がうまく動かない。そして、それは八田を見かねた伏見が「舌触れるだけでもいいからさっさとしろ!」と苛立ちを含ませながらも条件を和らげる程に長引いた。結局、躊躇う八田に苛々が頂点に達した伏見が八田の後頭部に右手を回して固定し咥内に舌を入れたことで条件は達成された。行為の後、腰砕けになり罵声もろくに吐けなくなっている八田を引きずるようにして、終始呆れた表情のまま伏見は屋上を後にした。

それは、二人の狭い世界が周りから隔絶され、彼らだけで完結していた頃の話。


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