長編夢小説 『 Unusual world 』
□『プロローグ』 2話 - 左手のぬくもり -
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『プロローグ』 2話 - 左手のぬくもり -
それは左手が覚えている、最後の記憶だ。
かすかな記憶の奥底に、あの時の思い出は埋まっている。
あれは、たしか、私が六歳くらいだったと思う。
あの頃、家の雰囲気はほんとうに最悪だった。
だから、よく覚えている、
あの頃の自分が、何を見て、
何を感じていたか――――
悲しきかな。
嫌な思い出ほど、よく覚えているたちなのだ、私は。
あの頃は、母親が優しく寝かしつけてくれた後、
いつも、夜中に唐突に目が覚めていた。
どうしてかはわからない。
誰かに揺り動かされたわけでも、騒音が聞こえたわけでもない。
ただ、すすり泣きがするのだ。
部屋の扉の向こうから、忍び寄るような、すすり泣きが。
それが、お化けか、幽霊か、その類だったらどんなに良かっただろうと思う。
しかし、その湿った嗚咽には、聞き覚えがあるのだ。
いつも、ベッドに横たわった自分を撫でながら、優しく語りかけてくれる母親の声――――
それに、よく似ていた。
その頃、母は毎晩、父の書斎の前で泣いていたのだ。
父は・・。いや、父秋元 智信は、
全身の血を鉄と入れ替えたような、冷たい人間だった。
もともとそういう人間だったのか、
それとも私の左手と左足に小児性の麻痺が発症してからそうなったのかは、わからない。
ただ、記憶の中にある、父から私へ向けられる視線は、
いつも死にかけの虫を見るような目で、
それは母に対しても同じだった。
母は優しい人だったけれど、強い人ではなかった。
私の動かない左手と左足を見つめては、いつも悲しげに目を伏せていた。
母が悲しい顔をするのは嫌だった。
そんな母はその苦しみを父と分かち合おうとしたようだが、
機械より冷たい父にはそんな優しさなどまるでなかった。
開かない書斎の扉の前で母がひたすら泣き、父がそれの一切を無視するという、
その一方的な夫婦喧嘩の源が、自分の動かない左腕と左足だという事は、
幼い私でも――いや、幼かったからこそすぐに分かった。
母のすすり泣きを聞くと、
自分が責められているような、いたたまれなくて、
今にも泣き出してしまいたいような、激しい苦しみに襲われた
だから母がすすり泣く晩は、自分もいつも泣いていた。
布団の中で胎児のようにくるまって、朝が早く来てくれる事を祈り、
夜が明けるまで動かない左腕と左足を呪った。
どうしてこんな体に生まれてきたのか、
どうして学校の友達のように健常者(あたりまえ)に生まれなかったのか、
そればかり思って奥歯を食いしばり、そして延々と泣いた。
自分の嗚咽が聞こえる内は、母のすすり泣きを聞かなくて良かったから。
そう・・。あの夜も、そうだった。