黒蝶は鮮青の風に吹かれる

□芽吹く心
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『――芽吹きなさい』


――やめてくれ。


『そう、忘れてしまいたいのね。己の罪も、何もかも。忘れて、なかったことにしたいのね』


――やめてくれ。

忘れてしまいたい、忘れてしまいたい。何もかもをなかったことにしたい。己の罪を。
けれど、忘れてしまいたくない記憶がある。失いたくない、約束が――。


『忘れてしまいなさい。空蝉となり、何も持たぬままにさまよいなさいな。けれど――』


薄れていく視界の中で、女の口元が笑みを描く。


『……何もかもを取り戻したならば、芽吹くが良いわ。罪に汚れた記憶を取り戻したならば、それにふさわしい穢れをもって――』




「やめてくれっ――!」



叫び声を上げれば、薄もやのかかった景色は霧散した。映るは、日に照らされ乾いた地面である。
乱れた呼吸を繰り返しながら、銀は己の震える手を眺めた。

気を失っていたようであった。木にもたれるようにして、地に座り込んでいた。


夢を――夢だったのか、今のは。
ずきずきと、頭が痛みを発する。それとともに、胸の奥底がざわめく。

自らを落ち着けるように息を吸い込み、前髪をかき上げた。
真昼の太陽に照らされ、己の濃い影が地面に映り込んでいた。

震えていた。心が、どうしようもないくらいに震えている。


『――また会おう』


頭の中に、声が響き渡る。一体誰のものなのか。夢中の恐ろしい囁きを落とす女とは別の。
暗闇に差し込む、光のような響きを持つ声は。

ずきずきと、頭が痛む。
それとともに、浮かび上がった記憶が遠ざかっていく。


重く垂れ込んだ心を吐き出すように、大仰な息をついた。


ぼんやりとする思考の中、主より言い渡された任を思い出した。
――ああ、そうだ。兵馬の確認。大社の様子を調べ、それから――。


ふるり、とまぶたが震える。


――あの方に会いたい。湧き上がる思いを抑えることができず、銀の足は高館へと向かっていた。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇



「わっ、と……」


倒れ込みそうになり、優樹はたたらを踏んだ。
ぽちゃん、と音を立て桶を満たす水が揺れ動く。
何とかこぼさずにすんだものの、支えきることができずに桶を地面に置いた。



「大丈夫ですか」


玄関口より顔をのぞかせた男に、優樹ははにかんだ。


「……見られていましたか」

「すみません、たまたま出掛かったところだったのですが……。重いでしょう、運びますよ」

「いいえ、これも鍛錬ですから。厨に運ぶだけなので、あと少しだから大丈夫ですよ」

「……どうしてでしょうね、君が九郎に似てきたように思えます」


「光栄です」と言いながら笑うと、優樹は桶を持ち上げた。



「優樹くん、このあと時間は空いていますか」


運び終わってより投げかけられた言葉に、優樹はうなずいた。


「ええ、特に何をしようということもありませんし」

「実は、これから遠乗りに行こうと思っていたのです。よかったら君も一緒に行きませんか」


誘いに喜び半分、とまどいをのせ苦笑をにじませる。


「遠乗り……馬に乗って、ということですよね。実は馬に乗ったことがないので……」

「ならば、これを機に乗ってみませんか。馴れるまで時間はかかるでしょうが、一度身体に覚え込ませてしまえば、一人でも乗ることができますよ」


馬の背に乗り自由に駆ける姿を想像し、心が弾んだ。
答えようと口を開いたとき。
横から伸びてきたものに、ぐ、と腕を引き寄せられ、優樹は目を見開いた。
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