短編小説

□手のひら
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「痛い……」


優樹は恨まし気に己の手の平を眺めた。ぽたぽた、と濡れそぼった肌から雫がこぼれる。
手のひらはところどころが切れ、赤い線が走っている。にじむ赤は、水で薄まり薄紅の小川を掌(たなごころ)につくった。
かつては繊手だったであろうその肌はかすかに隆起し、皮が破けている箇所も見られる。

六条堀川邸――。庭先に置かれた桶を前に優樹は眉を寄せた。
九郎の元で、刀の稽古を一通り終えた矢先のことであった。


「どうかしたのか」


背後からかかる声に、優樹は首をめぐらせた。


「実は手の傷が水に沁みて痛くて……」

「もしや稽古中にできた傷か」


九郎は優樹の隣にしゃがみこむと、懐かしむように目を細めた。


「俺もそうやって手に傷をつくっては……我慢していたものだ。今は痛いかもしれないが、休まずに刀の鍛錬を続けることで強くなっていく」

「九郎さんは厳しいな……休んでいいんだぞ、とは言ってくれないんですね」

「この場合は続けた方が良いんだ。痛みを乗り切れば、皮は厚くなって、同じ量の鍛錬をこなしても傷ができにくくなる」


六尺ばかりの布を懐から取り出すと、九郎は濡れたままの優樹の手をぬぐった。
そして傷と呼ぶには浅い痛みを宿す手を包み込むように、くるくると湿り気を帯びた布で巻いていった。
乱雑なその巻き方は、彼の性格を表しているというよりも、一時しのぎの処置からくるものであろう。


「そういえば……。……ちょっと待っていろ」


おもむろに九郎は屋敷の中へ姿を消すと、何やら手にして戻ってきた。
手のひらには、こじんまりとした小さい茶壺がのっかっていた。
優樹が好奇の眼差しを注いでいると、九郎はその蓋を外しその中に人差し指を入れた。


「悪いがその布、外してくれないか」


とろり、とした液体を先に絡めて、九郎は覆いの外された優樹の手の傷に指を這わせた。
微かに走る痛みに優樹が手を揺らすと、九郎は固定するようにその手首をつかんだ。

独特の香りに、すんと優樹は鼻を動かした。
どこかで嗅いだことのある香りであった。薬と呼ぶには、どこか優しい甘い香りである。


「塗り薬ですか?」

「ああ、リズ先生からいただいたものだ。昔、先生に稽古をつけてもらっていた頃……。
鍛錬でできた痛みを我慢している俺を見かねて、先生がときたまこれを塗ってくれた」

「そうなんですか、九郎さんにもそういう時期があったんですね」

「誰しもが赤子からその生が始まるのだぞ。俺だって、最初から刀が今のように扱えたのではない。
……塗っておけば、少しは痛みがやわらぐと思うぞ」


男の言に、優樹は首肯した。
痛みが襲ってきたのは最初だけで、包み込まれるよう塗り薬が痛みを吸い取っていた。


「本当に効きますね、全然痛くない。……でも九郎さん、この薬っていつもらったものなんですか」

「最近だ。さすがに俺もそう年の経たものを人に尽くそうとは思わない。今話した薬はもうとっくのとうに使い切った。
これは先生に新たにもらったものだ。だから安心しろ」


仏頂面のまま答える男に、優樹は安堵とともにくすくすと笑みをこぼした。


「しばらくしたら、水で洗い流せばいいだろう。それまでしばらくは置いておいた方がいいだろうな」

「稽古も終わりましたし、待つのはいくらでも平気です。ありがとうございます」

「……そうだな、俺も昔ほどは使わないから機会があればこの薬、お前が使って良いぞ。むしろ、持っていくか?」

「いえ、そこまでは……」


「二人してしゃがみこんで、何をしているのですか」
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