短編小説
□椛
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「真っ赤に色づいて綺麗ですね」
感嘆の声をこぼしたのは、水干と袴をまとう一人の童であった。
空を仰ぐために大きく首を反らしているため、結うには短い髪が肩をすべった。
くりくりと丸めた瞳の先には、空を覆い隠すほどの紅色の葉がひろがっていた。
「見上げすぎて、倒れないように気をつけてくださいね」
「いくらなんでもそこまではいかないですよ」
小さい笑みとともにからかいの声を童に浴びせたのは、身を覆い尽くすほどの外套をまとった男であった。
日の高いこの時には、闇色の外套は一際の存在感を示していた。
そして、それと対比されるように明るい髪は日本六十余州ではめずらしい金色――いや、それを鈍らせた蜜のような色――をしていた。
「遠くから見ても山一面が紅に染まって綺麗でしたけど、やっぱり近くで見ると本当に綺麗ですね」
空に架かる紅を見上げながらはしゃぎ声をあげる童――優樹に、弁慶は笑みを深めた。
「紅葉って葉っぱなのに、花みたいに綺麗ですよね」
「ええ、本当に。……それにしても、本当にうれしそうですね」
このまま駆け出してしまうのではないかと思うほど心躍らせている様子に、弁慶は笑みを押し隠すことができなかった。
「だって、綺麗なものは見ていてうれしくなるじゃないですか」
「……そうですね、美しいものは愛でたくなりますね」
男の視線が紅には向けられていなかったことに、果たして優樹は気づいていたのかどうか。
紅葉樹林に心奪われているその様子からは、とんと気づいてなどいないのだろう。
二人は薬草を探しに山野まで足を運んでいた。
だが、目を奪われる紅にその手が地を探ることを惜しんでいた。
ただ四季の一時にしか味わえぬ美紅に吸い寄せられ、足を進めていた。
「……どちらかと言うと、愛らしい……でしょうか」
ぽつり、と落とされた言の葉に優樹がようやっとのこと声の主に目を向けるも、映るはただ一笑の姿のみであった。
先ほどまで紅に向けられていた賛嘆の眼差しを受け継ぐように、男は首をめぐらせた。
鮮やかに彩られた錦の空を眺める男を、優樹は横目でうかがった。
そして小さく感嘆の息を漏らす。
漆黒に染められた外套は紅と対比され、色彩を引き立てている。
蜜色の髪は紅と混ざり合うことにより、はなやかさを増しているようであった。
だが、その感慨の思いは喉より先に出ることなく、飲み下された。
紅葉にも引けをとらぬほどの、美しい色彩を放つ髪色。――鬼子の色。忌み嫌われる異端者の色。
――綺麗なのに。
男の姿を見て、ちつと浮かんだのは哀しみと微かな憤りであった。
古より続く偏見から、美しいものが歪んだ形でとらえられることに対するもどかしさ。
紅葉の褥(しとね)に一枝見つけ、優樹はそっとかがみ込んだ。
男は優樹の手中に収まるものに目を留めた。
「持ち帰るのですか?」
「皆にも見せたら、喜ぶと思うので」
こぼれる小さな笑みに応答したのは、しばしの沈黙であった。
優樹は、紅の多手をまとう小枝を懐に入れようか、袖の内に入れようか、帯にはさもうかと逡巡し、葉が朽ち落ちるのは忍びないと思い手中に留めた。
「そうですね、きっと、皆さんも喜ぶでしょう」
「はい、こんなに綺麗なんだから、皆にも少しは見て……」
落ち葉を踏む音の近づきに、優樹は面を上げた。男は目前に立っていた。
そして、男は己のものより一回り小さい手からするりと枝を抜き取った。
「君は優しいですね」
優樹には、まるでその言葉が別の意を含んでいるように思えた。
だが、霞を前にしたようにその本意がつかめない。
「でも、今、瞳に収めるこの景色、君と僕だけの秘密にしたいと思うのはわがままですか?」
かさり、と落ち葉が風に吹かれる音がした。
「秘密があればこそ、おもしろみも増すでしょう」
男は紅の一枝を扇に、口元を隠し目を細めた。
細指の繰り為す優雅な動きは、芳香が漂っていると錯覚させた。
優樹が答えんと口を開くと、男は紅の扇をその唇の先にかざした。
そして、童の耳元へと唇を寄せる。
「……君とだけ分かち合いたいという願いが叶えられなければ、僕はこのまま君を椛(もみじ)の園の中へと閉じこめてしまうかもしれません」
驚き身をよじらせた小姿に男は口を歪めた。
言葉通りにその肢体を閉じこめんと動いた腕は、その意を果たすことなく半端に宙に止まった。
風に踊る蝶のように囲いをすりぬけた童の顔を見て、男は柄にもなく声を失ってしまった。
――椛色に染まるかんばせに、男の愛おしさはまたひとつ増した。