短編小説
□黒衣の夢幻館
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「え……ここどこ?」
それが目覚めてからの第一声である。
優樹がそう呟いたのも無理はない。そこは見慣れない景色であった。
優樹は自分がふかふかのベッドに横たわっていることに気がついた。
身体が沈み込むほどやわらかいクッション。
滑らかなシルク地は紫色で、黒いレースがあしらわれていた。
クロゼットやタンスなどの調度類は、すべて黒で統一されている。
といっても、この部屋を照らしているのは卓上に置かれたランプただ一つであったため、そう見えただけなのかもしれない。
恐る恐る、毛羽立ったダークレッドの絨毯へと優樹は足をおろした。
まるで新品のように、柔らかな肌触りである。
腰を浮かせてから、優樹はベッドの脇に置かれている靴にようやく気がついた。
スリッパに形状が似ている。絨毯と同じように柔らかな毛に覆われたそれに、優樹はそっと足を滑り込ませた。
ドアへと近づき、金製の獅子の装飾がなされたノブへと手をかけた。
力を込め引くと、キイィ……と耳に響く音を立てた。
大股にして三、四歩先に壁があった。どうやら廊下に出たようだ。
左を見るとすぐに壁があり、大きな絵画が取り付けられていた。
優樹は近寄り、その絵画を見上げた。
油絵のようであった。
細密に描かれているのに、ところどころ荒々しいタッチが用いられ表面が隆起している。
黒い龍がモチーフとなっているようであった。
優樹は、額に収められている黒い龍が哀れに思えた。
その絵がどのような物語を含んでいるのかはわからなかったが、もの悲しい気持ちになった。
龍は、空を飛んでいた。いや、落下しているというべきだろうか。
長いからだをくねらせ、下を向いている。
優樹には、それがまるで苦しみもがいている姿に見えた。
濡羽鴉のように輝いている鱗に覆われた龍。
その黒と同じ色の絵の具が、空にも描かれていた。
まるで風に舞う花びらのように、点々と描かれている。
おそらくこれは、黒き龍の鱗なのだろうと優樹は思った。
龍の鱗がはがれ落ちているのだと、物語を考えた。
鱗がはがれ落ちていく苦しみに耐えきれずに、もがいているのだ。
鱗は龍の証であった。鱗を一枚失うごとに空を飛ぶ力を失っていく。
力を保てずに、龍は下へ下へと落ちているのだ。
そんな風に考えて、ふと優樹は違う解釈を思い浮かべた。
――もしかしたら龍は、救いを求めて地上に突き進んでいるのかもしれない。
この龍を助けるものが、地上にある。
優樹は視線を滑らせて、ふと、絵画の下にある卓子に目をやった。
絵画の印象が強くて、はじめ意識がいっていなかった。
卓子の上には、花瓶がひとつ置かれていた。そこに生けられているのは――馬酔木(あせび)だ。
生けられた花は、ちょうど絵画の中の龍が突き進んでいく先に置かれていた。
黒い龍は馬酔木に魅せられてしまったのだと、優樹は空想を遊ばせた。
あるとき空から地上を眺めていた龍は、その馬酔木の花に恋をしてしまった。
千里もそのさきも見渡せる目を持っていた龍は、すぐそばで見るのと同じようにその馬酔木を見ることができた。
風に揺れ葉を鳴らす音も聞くことができた。
ただ、香りだけが届かない。
龍は地上に降りることは叶わない。ただただ空から眺めるばかり。
一度で良いから、あの馬酔木の花の香りに包まれたい。
そう願った龍は禁忌を犯してしまった。
地上に降りてはいけないという約定をたがえて、下へ下へと突き進んでいった。
鱗が一枚はがれ落ちたとき、龍は悟った。もう空へ帰ることは叶わないのだと。
鱗がまた一枚、一枚とはがれ落ちていった。
龍は苦しみもがいた。
それでも龍は地上へと身を堕として――。
優樹は、そこで空想を途絶えさせた。
ゆっくりと振り返り、果ての見えない廊下を進んでいった。
――もう、黒い龍と馬酔木のことは記憶からこぼれ落ちていた。
どこまで続いているのだろう。
目をこらしても、廊下の続く先は陰となっており果てが見えない。
壁付きの燭台が薄暗く大理石の床を照らしているものの、頼りない明かりであった。
廊下には、窓が等間隔で取り付けられていた。
窓枠には、草花を抽象化した装飾がなされている。
外は暗く、何も見えなかった。
おそらく夜なのだろうと優樹はぼんやりと考えながら進んでいった。
壁や床には、優樹の影が映し出されていた。
不安定な燭台の明かりが、影を揺らしてまるで別の生き物のように見せていた。
「あっ」と、優樹は目の前を横切った影に驚いて、小さな悲鳴をあげた。
薄暗い中に浮かぶ二つの眼光に、足をすくませる。
だが、ナーオ……と聞こえてきた鳴き声に、肩の力を抜いた。
――猫であった。すらりとした細身の一匹の猫である。
猫が身を隠す陰も出入り口もどこにもなかったはずだが、急に姿を現した獣に優樹は何の疑問も抱かなかった。
立ちすくんでいる優樹に反し、猫は人なつこくのどを鳴らして近寄ってきた。
見上げてくるその顔は、まるで自分から愛嬌を振りまいているようであった。
優樹はそっとしゃがみこみ、猫と視線を合わせた。