陰陽寮日記 2
□感謝
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『感謝』
比古が都の安倍邸に滞在しはじめてから一週間がたった。
始めは昌浩の顔をみたらすぐに帰るつもりでいた比古だったが、昌浩の初めての同年代の友達を歓迎した露樹によって引き止められたのだ。
ある日、比古がいつものように早朝の都散策から帰ると、露樹の手伝いをしている彰子がくるくると働いていた。
「おはよう比古」
比古に気付いた彰子が笑顔で声をかけてくる。
「おはよう彰子」
つられて笑顔になった比古は、昌浩が彰子に癒されるのもわかる気がするなあ……などと思った。
「おはよう比古、どうしたんだ?」
1人感慨にふけっていた比古に声をかけたのは昌浩だった。
「おはよう。いや、なんでもない。」
今思った事を昌浩に言うのも気恥ずかしかったのでなにもなかったことにする。
それから、比古は昌浩が狩衣姿のことに気付いた。
普段の昌浩だったら今頃直衣に着替えてバタバタと慌しく出仕の準備をしているころだ。
「昌浩、おまえそんなに余裕にしていていいのか?」
比古のもっともな問いに昌浩は笑って返す。
「大丈夫、今日は物忌みなんだ。説明すると長くなるけど自宅に篭って精進潔斎の日。」
休みなのだったら彰子もさそってどこかに遊びに行こうかと思った比古は心の中で静かに肩を落とした。
そこへ、突然強い風が吹く。
思わず腕で顔を覆った二人。
「うわー、凄い風」
その強い風を受けて言った昌浩の頭に、何かくっついているのを比古は見つけた。
「昌浩、何かついてる。」
比古が昌浩の髪の毛から取り除いたのは、今の風で飛ばされてきたたんぽぽの綿毛だった。
ふと視線を庭にめぐらすと、隅の方でたんぽぽの黄色い花が風に揺られていることに気がついた。
「うわー、たんぽぽなんて咲いてたんだー」
駆け寄った昌浩の後に比古も続く。
血みどろになりながらも自分の意思を曲げずに力の限り振るったり、暴れだす天狐の血を必死に押さえ込んだりしているかと思えば庭先のたんぽぽを見てこんなにはしゃいでみたり、全く忙しいやつだ。
そんな事を考えながら昌浩の後ろに立っていた比古は、昌浩がいたずら心で瞳を輝かせていたことに気付くのが遅れた。
次の瞬間。
ふーっ、と勢いよくたんぽぽの綿毛を顔に吹きかけられてしまった。
「ぶ…っ、何すんだよ昌浩!」
「ぼーっとしてる比古が悪いー」
そういう昌浩に比古も仕返しとばかりに綿毛を吹きかける。
あわや喧嘩という名のじゃれあいが始まろうかというところに彰子の声が聞こえてきた。
「二人ともー、朝餉の仕度ができたから上がってきてちょうだい。」
「わかったー」
ふたりは異口同音に返事をして、自分の頭や衣についた綿毛を払って朝餉に向かった。
しかし、先に晴明たちが朝餉をとっている部屋に入る寸前で彼等は彰子に引きとめられる。
「まあ、二人とも綿毛だらけ!!何をしてたの?」
自分達では払ったつもりでいたものの、やはりまだいくつも綿毛がくっついていたらしい。
二人を見つけた彰子が丁寧に取ってくれた。
「ありがとう彰子」
「すまない」
さすがに何をしていたかは恥ずかしくて口にできなかったが、ただでも忙しい彰子の仕事を増やしてしまったことに少し罪悪感を覚えた。
それから手早く朝餉をすませた二人は、縁側に腰をおろして風に当たっていた。
お互いに何か考える事があったのだろう、しばらく二人は無言で庭先を眺めていた。
その沈黙を先に破ったのは比古だった。
「彰子にいつもお世話になっている俺達としては、ここで何か感謝の気持ちを表すべきではないのか?」
比古がそう切り出すと、昌浩も正に同じことを考えていたと首をブンブンと縦に振る。
「そうなんだよ!俺も何かできないかなっていつも考えてるんだけど思いつかなくて…。」
うなだれたように肩を落とす昌浩の肩をポンッと叩いて比古は笑った。
「大丈夫、今は二人いるんだから何か思いつくさ。」
こうして二人は彰子にどうしたら感謝の気持ちが伝えられるか考える事にした。
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